ニコンF発売50周年記念 後藤哲朗氏特別講演会 歴史は写真によって記憶される 「Fから50年目の挑戦 栄光 現場 ―そして未来を語る―」 講演録 平成21年12月5日 13:30〜16:00  中野サンプラザ14F クレセントルーム 当日の講演会は、パワーポイントを用いて数百枚におよぶ画像を上映しながらの講義となりまし た。そのため、文章だけでは理解のおよばない個所があると思われますが、その点は何卒ご了 承ください。この原稿は、当日の録音データを元に、可能な限り忠実に再現しておりますが、一 部聴取不能の部分があったほか、文書化に当たりまして、論旨を変えない範囲で語句の変更を 含んでおりますことも併せてご了承ください。 なおこの講義録の文責は、(株)フジヤカメラ店にあります。 皆さんこんにちは。ニコンの後藤と申します。 せっかくの土曜の一時、わざわざお越しいただきましてありがとうございます。 私の話でひょっとしたらニコン嫌いが出てきたり、フジヤカメラさんに寄りもしない人が出てきたの では困ると思いまして、色々と内容を考えてまいりました。 夕べもふと思いついて、朝方一枚画像を付け加えてさらに工夫してまいりましたが、これらがウケ るかどうか、良くわかりません。実は今日のために1万5千枚くらいの画像をチェックしてまいりまし た。後程なぜ1万5千枚なのか、その理由を申し上げますが、皆さんにとって興味のある内容に なれば幸いと思っております。 私は写真が好きでこの会社に入りましたので、こういう時には必ず写真を撮らせていただいてお ります。皆さんは写真を撮ってはいけないという話ですが、私は写真を撮ることをずっと仕事にし ておりますし、今日はFのお祝いでもありますので、自分のFを持ってまいりました。 それを使いましてここから写真を撮らせていただきます。(笑) (演台の後藤氏は、聴衆に向けてニコンFを構え左から右へと次々と流れるようにシャッターを 切っていった。カメラは使い込まれて真鍮の地金も露わなニコンFブラック+オートニッコ−ル24 oF2.8。素早く小刻み巻き上げを繰り返す鮮やかな手つきは、その動作がもはや体にしっかり 染みついていることの証であるかのようだった。) ちょっとまだ表情がかたいので、柔らかくお願いします(笑)。ありがとうございました。 本日のアジェンダと申しますか、お話しの進行予定を申し上げます。 最初になぜフジヤカメラさんとこういう関係になったのかをお話し致します。 その後、自己紹介と組織の紹介をさせていただき、そしてニコンの歴史に入ります。歴史の中に どういうことがあったのか、カメラ業界にどういうことがあったのか、これからどんなことが起きるの か、そうした話になると思います。 その次ですが、最近Fの秘密が色々とわかってまいりましたので、そのコンセプトとか裏話をお話 ししてみたいと思います。 ニコンには信頼性が一番大事だと、最近よく思っておりますが、その一つの証を、画像を交えて お話し申し上げます。それから、最近の状況、今日も新聞に出ておりましたが、写真業界が少し 業績の上方修正をいたしました。そうした話を踏まえて、将来どうしていこうかということなどを、ニ コンの技術を含めてお話ししていきたいと考えています。 ところで、実は今日会社からも会場に何名か来ています。大井町の本体と、それからニコンイメ ージングジャパンからも来ています。 私の話が聞きたければ直接行くから、わざわざ大勢で来る必要はない、と申しましたが、本当は 彼らが何のためにここにいるのかと言いますと、私を羽交い締めにするためにいるらしいのです。 色んな場面で私がサービスをし過ぎて、言ってはいけない事を言ってしまうということがあるらし いので、その時はここから引きずり出されるかもしれません(笑)。 さてフジヤカメラさんとの関係でございますが、数年前のこれ(スクリーン。F6新発売時の弊社広 告・そこには「時代錯誤の暴挙に乾杯」とあった)が切っ掛けです。嬉しい宣伝をして頂いたお礼 に中野に参りました時、通していただいた部屋にはFからF6までがずらりと並んでいました。 そしてその隣には、「2012年 F7」と書いた箱まで用意して頂いてありました。やっとF6を売り始 めたばかりなので、勘弁して下さいと笑いながら申し上げて、その日もおいしいお酒を飲んで帰っ たという思い出がございます。 今年はF発売からちょうど50年、Fマウント50周年。 それからニッコールレンズの生産本数が累計5,000万本を達成致しました。おかげさまでニッコ ールレンズは、毎年400万本ずつくらい増えています。 このように50がたくさん揃っておりますので、会社でも何か大きなイベントができると良かったので すが、現在の経済がこのような状況でもあります。ニコンの映像カンパニー自体は利益をあげて おりますが、他のカンパニーが大変苦労をしておりまして、せっかくの50年であるにも関わらず、 何も豪華な事ができないことを非常に残念に思っておりました。そう言うところにフジヤカメラさん が今年の夏、「ニコンFマウント誕生50周年記念大回顧展を」やって下さいました。これはニコン にとりまして本当にありがたいお話でありました。講演を依頼されたときに断る理由など微塵もあ りませんので、今日ここに伺ったとそういう次第でございます。 自己紹介に入らせていただきます。 これは昔父親が持っておりました蛇腹のカメラでございます。私の子供時代は、月光仮面など 色々と飛び道具が出てくる映画やテレビがはやっている時代でした。少年ジェットがどうしてピス トルを持っているのか、今なら不思議に思いますが、そういう時にこういうカメラが身近にありまし て、私自身子供のころからメカものが好きだったこともあり、写真を始めておりました。 祖父から買ってもらいましたのがこのフジペットです。その時に父親が持っておりましたのがトプ コン35Lでした。これは左目を開けて、像が等倍に見えるカメラでした。 中野駅の向こう側に鍋屋横町という通りがございまして、ちょうどその頃には、私はそこに住んで おりました。 その頃からフジペットやトプコンを持って、写真を撮っては遊んでいたのですが、その時代に通 っておりました写真屋さんが、今もまだありました。 昔の名前は長い面の堂と書いて「長面堂」と言いまして、当時としては立派な写真屋さんでした。 今は場所が移ってお店の名前も変わり、ごく普通の写真屋さんになっていましたが、先程名刺を 持ってご挨拶に伺ったところ、当の長面堂でかつて番頭さんをされていた方がまだおられまして、 深くお礼を申し上げた次第です。 まさか子供の時から50年も経ってからご本人のところにご挨拶に行ける、というのは本当に嬉し いことだと思いました。 その当時は高いカメラを買うことができませんでしたので、中学生の時にお年玉でこの「世界の カメラ」と言う本を買いまして、中を繰り返し眺めておりました。 いま改めて見直しますと、ニコンとライカのところには何のメモも書いてありません。 イタリア製などの安いカメラには、リラを換算して何千円と書いてありますので、これだったら買え るかもしれないと考えては、毎晩楽しみに見ていたようです。逆にニコンやライカは当時の私に はあまりにも高くて、全然違う世界のものだと思っておりました。 それが今日こうして、ニコンの社員としてカメラのお話を皆さんの前でできるということは本当に 夢のようであります。 学生時代に使いましたのは、友人に借りたリコーオートハーフです。次に自分で買いましたの が、キヤノンのデミEE17。これは新宿西口の中古屋さんで買いましたが、その当時で1万円も しました。その頃友人から借りた一眼レフがキャノンのFTbす。セルフタイマーのレバーを少し 内側に倒すと電源が入るというカメラでしたが、今ではそのことをわかる方も少なくなったので はないかと思います。そして、会社に入って買いましたのが、ニコンF2フォトミックSでした。ほ やほやの新入社員でしたのでまだ信用がないということがあり、自分の名前では月賦を組むこ とができず、先輩にお願いした名前を借り20回月賦で買ったものです。 私はこのように色々なカメラ使ってまいりました。現在私はニコンにおりますが、実はニコン党 ではありません。フジ党でもありませんし、トプコン党でも、ましてやキヤノン党でもありません。 「私は ゴトウ です」(爆笑)。 伊藤さんとか佐藤さんという方も使えますので、是非お試しください。 現在持っておりますのは、昨年買いましたD700とライカVFです。このライカVFは、私が生ま れた1950年に製造されたうちの一台を、生涯の記念としてフジヤカメラさんから買わせていた だいたものでございます。今も両方を使い分けておりますが、何かと両極端な性格で楽しいで す。さすがにデジタルカメラのD700は失敗がなくてどんどん撮れます。ただそのためでしょうか、 一枚一枚に気持が入らないと言いますか、気合いが入らないと言いますか、ある時には無駄遣 いが多いとも言える機械です。実際にはとても良い写真が確実にたくさん撮れるのですが、ライ カのように精神を集中して一発必中を狙う機種ではないように思います。設定は良かったか、 フィルムの最後の一枚がそろそろくるかな、と不安に思いながら使う、そういう機械の持つ味もい いものだと思っています。そのため私は、6速のマニュアル車を楽しんでおります。 これまでの仕事のお話しをさせていただきます。(スクリーンにはニコンの歴代カメラ) 私はF、F2には関わっておりませんでした。73年に入社しましたのでそれ以降の仕事でござい ますが、F3、F4,F5,F6と、おかげさまでこうしたフラッグシップの設計を担当させて頂きまし た。画面の下の方がデジタルカメラです。左の方にQV1000Cから、D1やフジのカメラもありま すが、これら点線で囲んであるカメラは私がダイレクトに担当したのではなく、フィルムカメラのメ カニズムや要素技術を電子カメラ部隊に改造して提供していたという役割でありました。そこで は、電子写真のメンバーにカメラとはこういうものですということをサジェスチョンしながら一緒に 仕事をしてと言う立場です。 この実線のD1X以降D3系までが、私の仕事であります。 普及機クラスも色々担当させて頂きまして、今ではずいぶん懐かしいもの、APSカメラも含めまし て約20年現場をまとめてまいりました。開発本部長の時には、レンズシャッターカメラから、ストロ ボ、クールピクス、レンズ、ソフトウエアといった全製品の開発を指揮しておりました。 2年ほど前に開発本部長を退いておりますので、私が皆さんの前で詳しくお話ができるカメラは、 今年のD3sまでということになります。その2年くらい経っている間に企画の始まった今年の D3000やD5000につきましては、生まれた時からの事をあまり詳しく語ることができません。 コンパクトデジカメのようなモデルチェンジの早い機種につきましても、私が本部長を外れた遙か 後にスタートしておりますので、尚更詳しくお話しすることができないということであります。 ただ昨年のD3xと今年のD3s、いくつかのニッコールのレンズにつきましては、2年以上の開発 が要した、あるいは前機種の流れに沿った製品ですので、自分の責任を以て細かくお話しでき る状態です。従いまして来年から出てくるであろう新機種は、私には詳しい所まで良くわからない 製品となるかも知れませんが、頼もしい後輩がおりますのでそちらにもご期待ください。 次に会社の紹介をさせて頂きます。 この写真はニコンの社長、苅谷でございまして、ホームページの画像をコピーしてまいりました。 「信頼と創造」は会社のモットーであります。これはずいぶん昔からの企業の理念でありますの で、変わることなく最上位に掲げて大事にしております。 この数年間は、「期待を超えて期待に応える」ということを重視してやっております。後にも申し上 げますが、期待を超えてと申しても、これはある意味大変不遜な言葉でありまして、そもそもニコ ンに期待をしていない人も大勢おられると思います。そのため、これではまだ世間が狭い、自己 満足ではないかという反省の言葉が、社内にはあります。 次に後藤研究室のご紹介でございます。 映像カンパニーにはマーケティング、生産、開発と三つの本部があります。それ以外にも本部 に属していない部としてインターネット関連、デザイン、といった部署がございます。さらにもう一 つ歌川研究室と言う部門があり、ここでは画像処理の研究をしております。国内ではNIJ(ニコン イメージングジャパン)が映像機材の販売を担当しております。この位置に今年後藤研究室が 設立され、私が数名のスタッフと一緒に仕事をしております。今日この会場にも何名かが来て おります。デジタル関係、フィルム関係と色々な仕事をしてきて気が付きましたのは、とにかく物 事には、特に写真には遊びがないと楽しくないということでありました。 現に自分でもいろんなソフト使って画像を遊んでいます。このように自分の顔をターミネーター に加工するフリーソフトもあります、会社をターミネイトするつもりはございませんが(笑)。 このようにデジタル写真という新しい技術によって写真が本当に面白くなりました。もちろんフィ ルムでも工夫すれば遊べるのですが、デジタルになって実に簡単に、さらに未知の可能性が拡 がってまいりました。映像カンパニーのキャッチコピーであります「At the heart of the image」。 これはいま一つ知名度がありませんので、できるだけこうした機会に取り上げて、宣伝に努めて おりますが、社内には私が宣伝することで、かえって「heart of the ダメージ」になるのではない か、という口の悪い者もおります(笑)。 今私が考えておりますテーマが何であるかというお話しをさせていただきます。 現在の市場には、多くのメーカーから非常にたくさんの商品が発売されております。デジタル時 代以降に新規参入したライバルメーカーともしのぎを削る中、ニコンとしましては、追い落とされ ることがないように必死で頑張っておりますが、そうした中でこれからニコンはどのような方向に 進むべきかということを日頃から考えているわけです。 「きれい」と「早い」はカメラとして当然の機能でありますが、それだけでは当たり前すぎて、しかも 即物的になってしまいます。そうしたことは技術的に頑張れば達成できますが、その上でさらに、 ニコンにとって必要なキーワードとは何なのか、ということを考えていく必要があると思っていま す。ニコンは電気メーカーと違い、カメラ機材の開発を60年以上続けてまいりました。製品の付 加価値につきましても、このように色んなキーワードを考えました。例えば使いやすい、心地よい そこまでしてくれるのか、というように、お客様にとってうれしい製品を作らなくてはなりません。そ れから、不遜ではありますが、写真文化に対しても何らかの貢献をしたいと考えておりまして、現 在色々な活動をしております。 私共の具体的な仕事の内容につきましては、今月号のアサヒカメラ(2009年12月号)の記事や、 WEBにもインタビューが掲載されておりますので、そちらをご覧いただくことでおわかりいただ けると思います。ただし雑誌の記事にはきれいなことしか書いてありません。実は私共は現在の 状況に危機感を抱いておりまして、それが現実とならないように、今見つめ直すことは何か、そし てその上でニコンのDNAをきちんと継承して行きたいと思い、現在の仕事に取り組んでおりま す。先程も申し上げましたように、こうした活動を行いましても、実はニコンに期待をしていない 人、ニコンのことをよく知らない人、カメラになど興味のない人が世の中には大勢おられます。 こういった人たちにどのようにアプローチしていったらいいだろうか、と言うことも大きな課題でご ざいます。 話はずいぶん昔になりますが、これからニコンの歴史についてお話したいと思います。 日本光学は1917年(大正6年に)、三菱グループの一つとして発足されました。 東京計器の計器部門、岩崎硝子の探照灯用反射鏡部門、藤井レンズの三つの会社を併せまし て、三菱の岩崎小彌太(いわさきこやた)という人が設立した会社であります。 当時日本には光学専門の大企業がないということから、株式会社日本光学工業ができましたが 設立の数年後にはドイツから光学技術者を呼び寄せています。8人の技術者が家族を連れて 来日し、当時としては大変立派な住まいを用意して厚遇していたと記録にはあります。 その中の一人にハインリヒ・アハトという技術者がおりました。この人が中心となって色々な顕微 鏡のレンズ、写真用のレンズの設計を始めたようです。 彼のもたらした設計成果だけでなく、レンズ設計のノウハウや手法というものがその後の日本の 光学工業の礎になっています。その時に設計されたレンズには「アニター」という名前がついて おりまして、記録では何本も作ったようですが市販はされなかったようです。 彼らは色々な分野で活躍してくれており、当初は望遠鏡、顕微鏡、双眼鏡といったものを設計 をしたのに続いて初めてのニッコールレンズの設計が終わった時には1932年になっておりまし た。ご覧のような写真があることからわかりますように、このレンズは現存しております。 この間倉庫を調べて見ましたら、このレンズが出てまいりました。小振りな紙の箱に現物が入っ ていましたが、その箱に詰めてあるクッションが、何とその当時の新聞でした。これも捨てるには 忍びないと思い、そっと拡げてコピーをし、もう一度保存し直すよう指示いたしました。 その頃にニッコールのブランドが商標登録されております。この時代からすでに77年が経って おります。 その当時日本光学で作っていた写真機材について調べてみますと、トラックに積んで写真撮影 をする5m望遠写真機や、このような96式小航空写真機のような機材がありました。96とは紀元 (皇紀)2596年を意味しておりますので、1936年(昭和11年)頃ということになります。このように この時代のニコンでは、敵地をスパイする目的のために写真機材を作っていたようです。おそ らくこれがこの当時における最先端の写真用光学技術レベルだったでしょう。 以上のようにニコンのルーツを検証してまいりますと、現在では余り声高にお話しできるような事 ではないのですが、こうした戦時の必要から産み出された光学兵器という仕事にたどりつくので あります。 画像のように戦艦大和のブリッジ上部にこのような、三角測量を行う測距儀という装置がござい まして、これを日本光学が生産しておりました。ご存じのように大和は測距儀と共に南の海で眠 っております。測距儀は敵船との距離を測らなくてはなりませんので、前方だけではなく前後左 右360度を見る必要がありました。またブリッジ上部の一台だけではなくて、各砲塔にも付いてい ないと完全な能力を発揮しませんので、大和には基線長15mのものが4基、さらに10m、4.5m、 1.5mと随所に、全部で11台載っていた事になります。戦艦武蔵も同様のようです。 さらに生産していた機材には、方位盤と言う東西南北の方向を決めるもの、さらに測敵盤、射撃 管制装置というものもありました。これは目標との距離を測り、目標の位置と進行方向と早さを観 測し、それらを計算して目標の未来位置を予測するという機械です。AFカメラの動体予測のよう な技術ですが、これは大変に大きな装置でありました。測距儀の光学系から得た機械的信号を 膨大な歯車とカムとで計算を実行する、いわゆるアナログコンピュータです。現在のステッパー の、非常に大きな装置ながら何ナノメーターという超精密な計算と位置制御をして半導体デバイ スを製作する技術というのは、ここからきているのではないかと考えております。 資料によれば戦時中には探照灯用の反射鏡も作っていたと聞いております。 この写真は1933年当時、大井町にあった社屋です。現在ではこの斜め前にモダンな7階建ての 建物がございますが、この古い建物はまだ存在しております。101号館と申しまして、当時は1号 館と呼ばれたニコン最初の工場でありました。建ててからすでに75年から80年が経過しておりま す。写真を見比べますと、当時4階建てだったものが、5階建てになっていることがお解りになる と思います。いつの間にか建て増しをして現在の姿になっています。 実はこの建物には現在技術部隊など大勢が入っております。これから何とか利益をあげて、近 い将来には新しい建物を建てたいと思っていますがどうでしょう。 (社屋前の光学通り)その反対側のここにも非常に古い建物がありましたが、その隣には幼稚園 から高校まで一貫のきれいな学校がありますものですから、これはいくら何でも、ということで建て 直してあります。それ以外にも古くてもう仕事をするのに不便な建物を二つほど解体中ですので この古い1号館が、当時のまま現在唯一残っているということになります。 ニコンの歴史で、まだ一般用カメラを作っていない時にも一般用写真用レンズだけは作ってお りました。その時の一例がこのハンザキャノンに付けたニッコールの5pF3.5です。Canonと言う 字を小さくしているのは何となく気持ちがわかると思います(笑)。 ここに至る経緯にはいくつか興味深いエピソードがございますので、少しお話ししてみたいと思 います。「キヤノンの挑戦と成功」という本を見ますと、内容については確実に検証されてはおり ませんが、その頃(昭和9年)キヤノンにはレンズを作る技術がなかったようであります。そこで自 社のカメラに取り付けるレンズの製造をニコンに頼みに来たということです。しかもそれをニコン は快く引き受けたようです。 今と違ってこの当時日本光学の従業員が2,4000人いたのに対して、キヤノンの前身である精密 光学研究所はたったの10人、まだ株式会社にもなっていないという会社だったようですので、ニ コンは鷹揚に引き受けたようです。それが先ほどのハンザキヤノンのレンズです。 さらに、これも調べなくてはならないのですが、キヤノンではファインダー光学系もできなかった と書いてあります。 ハンザキヤノンの上に開く例のファインダーですが、当時は、ファインダーもライカの豊富な特 許に縛られておりましたので、そこを逃げなくてはいけないという宿命がありました。キヤノンでは できないということで、ニコンが請け負ったと、そう書かれてあります。 さらに時代が下って景気がよくなった時にはレンズが足りなくなりました。キヤノンからは是非供 給して欲しいと要求されますが、景気がいいものですから日本光学にもそれに応える余裕があり ませんでした。そこで製造設備から生産技術者まで先方に提供したと、いうことが書いてありま す。本当にそうなのか事実を検証して見たいと思っています。今ではあれだけ強大になったキ ヤノンがニコンをつぶさないのは、そうした故事のお陰ではないか、おそらく今でもキヤノンには そのことを恩義に思っていただいている方がおられるのではないか、と勝手に思っております(笑)。 さて不幸な第二次大戦争が終わりましてから、ニコンは本格的にカメラの開発を始めました。当 時三万人くらいいた従業員を一挙に千人くらいに減らして再起を計ったようです。今は盛んに 経済不況だといっておりますが、それどころではないことが実は60数年前には日本には起きて いた訳です。そのせいでしょうか苅谷社長は、60年前のことを考えれば今の不況くらい何という ことはない、頑張れる筈だ、と言っております。確かにそうなのですが、そうは言いましても現場 は大変苦労をしておりますが(笑)。 戦後間もなく、試行錯誤を繰り返していた頃の図面が残っておりました。こうした二眼レフもあり ました。ニコフレックスと言いまして、どこまで開発が進んだのか証拠は残っておりませんが、途 中でやめてくれて良かったのではないかと思います。その後の発展を考えますと先見の明があ りました。方針をレンジファインダーとし、1948年にはニコンT型を、その前年にはニコンという 登録商標まで取得しております。 残念なことに、最初のT型はうまくいきませんでした。それは24o×32oという中途半端なフォ ーマットだったためです。一本のフィルムで少しでも多く撮れるようにと思ったのでしょう、このサ イズですと36枚撮りで40枚撮影することができました。ただ、スライドをマウントする時、自動式の カッティングマシーンにかけますと、画面の途中から切れてしまうということがおきました。これで はいけないというので改造を加え、次のM型やS型に繋がって行った訳です。 この時にニコンのT型やM型などを使ってくれた写真家があの木村伊兵衛さんでした。 現在東京写真美術館におきまして木村伊兵衛とカルティエ・ブレッソンの写真展が開かれてい ますが、そこにはベタ焼きも展示されていました。そのベタ焼きを見ますと、微妙に駒間の広い ベタ焼きがありますが、何とそれがニコンのM型やS型(24o×34o)で撮ったものなのです。 ニコンだけではないのですが、35mmのフィルムフォーマットでそのような紆余曲折があった証 拠がそこでは見られますので、是非ご覧いただきたいと思います。 ニコンのカメラだけではなくて、日本のカメラ産業を世間に知らしめてくれた方がこうした人達で す。ロバート・キャパ、ハンク・ウオーカー、カール・マイダンス、デヴィット・ダンカン等です。ダン カンさんがどういういきさつでニコンの工場に来たかということにつきましては色んな記事にも書 かれておりますが、ご本人を写した写真(ニッコールで撮ったダンカンのポートレート)を見て感 動し、ニコンの工場に来て,その後ニューヨーク・タイムスに、日本にはいいレンズがあると紹介し てくれたエピソードは大変有名なお話です。詳細は省きますが、ダンカンさんは当初はキヤノン に行く予定だったということです。それが先方に断られたために仕方なくニコンに来たと、資料 にはそんなことも書いてありました。雑誌でも本人が取材されていましたのでこれは事実といって 間違いないようです。そうしたちょっとした偶然が、その後のプロ市場でのニコンの飛躍と現在ま で存続していることの原点にはあるという、ありがたい歴史がありました。 その後もダンカンさんは時々ニコンにお見えになりました。ニコンにとりましても日本のカメラ業 界にとりましても、神様のような方でございます。 初めて日本光学に見えたのが朝鮮戦争の1950年頃ですから、その時に30歳くらいとしますと、 数年前にお見えになった時にはさすがに結構なお年になっておられました。 その時一緒に撮っていただいたのがこの記念写真です。この時はD1xの時代で、ダンカンさん が初めてそのAFカメラを使ってくれました。最初にニコンの会長を撮っていただいたところ、こ のように一枚目は見事なピンボケになってしまいました(笑)。このカメラには何点ものAFのポイ ントあって、何もしなくてもきちんと撮れる筈なのですが、こういう神様のような人が使って逆にピ ンボケになってしまうとは、却って不思議なことだと思った次第です。 ダンカンさんの後ろはピカソの絵です。これがダンカンさん自身が撮った写真かどうかわかりま せんが、お互い非常に仲が良かったということです。(ダンカン、携帯で電話をしている)ちょうど この日がピカソの誕生日だったようで、ダンカンさんが私の携帯からフランスに電話をしている 所です。実は今でも私の携帯には、ピカソの息子さんの携帯番号が記録されています(笑)。 電話をすることはないでしょうが、消さないよう今でも大事にしています。 これは戦艦ミズーリ号の降伏文書調印式における取材証明カードのようなものだそうです。 たった一人乗艦を許され、ブリッジの上から調印するときの有名なシーンを撮ったカメラマンが このダンカンさんでした。。 さてこれから本題に入らせていただきます。 何故Fマウントは50年も続いたのか、ということが最近言われております。 ニコンという会社は、先にお話ししましたように戦争の前にはカメラ機材などが本業ではなく、い わゆる光学兵器を作っていた会社です。人の生死に関わる道具ですありますから、どんなにコ ストが掛かっても絶対に間違いのないものを作るという精神で仕事をしておりました。 そこには大変な苦労があったようですが、例えばこういう証拠文献が残っています。 これは魚雷の発射装置に関する記述で、兵器の名前が書いてあり、軍の関係者の名前の右側 に日本光学工業KKとありまして、担当した設計者の名前が書いてあります。こちらは大砲か何 かの装置だと思われますが、ここにも同じように政府の方の名前と、それから日本光学の設計者 の名前があります。この人々はいずれも私が入社当時の役員や直接の上司だったなど、実際 に会ったことのある人達ばかりです。このような職務に就いていた人達が戦後になってカメラを 作ったわけでから、壊れるカメラができるはずがありません。 Fマウントが50年も続いている裏には、こうした妥協を許さない信頼最優先の姿勢を継承したと いうことが大きかったのではないかと思います。このような規格はそう簡単には続かないもので、 いくら改良をしてもだめだったと思いますが、こういう技術者が考えたものですので基本がしっか り完成しており、今まで50年も保っているのではないかと思っています。もちろんその後AF化や その他たくさんの新技術が要求された時に、これを何とか克服してきた我々の努力ということも あると思いますが、基礎的な部分が大変しっかりしていたということが一番重要ではなかったかと 思います。 話は変わりますが、現在F誕生にまつわる秘話を紐解いています。 例えば設計者の談話を取って記録に残しています。Fの設計者だった人物はすでに80代にな りましたが、今でも健在です。Fの開発を始めた当時は、S型が大変よく売れている時代だった ようです。作る端から売れていくという時代でしたので、Fの開発陣は会社の中心ではなく、半 ば勝手にやっていろというような状況であったようです。 会社からは、Sのメカニズムを左右に分け、真ん中にミラーBOXを置くこと、ファインダーの視野 率は100%を確保すること、といった程度の条件を与えられていましたが、設計自体はかなり自由 に、ある意味肩身の狭い思いもしていたようであります。 会社の倉庫を調査しておりますと、古い会社ですので、次から次へというほどにいろんなもの、 例えば設計書、試作品といったものがたくさん出てまいります。 少しお見せしますと、これは本来彼こそが「ミスターニコン」と呼ばれるべき更田正彦が書いてい る設計書のフロントページです。かなり理論的な分析をやった設計計算書であります。ここに (講演会のポスターに)私のことをミスターニコンと、面はゆい紹介がされていますが、本来私は こういう難しいことができる者ではありません。このような難しいことをやってくれる人々がニコン の中にいましたし、今でも後継者が多く存在しています。 試作品もたくさん出てまいりました。この画面では小さくごまかして申し訳ありませんが、(倉庫か ら発掘された試作品の数々)、いずれすべてを公にして皆さんのもとにニコンヒストリーともいうべ き大きな物語をお話できるようにと計画しています。その中でただ一つ、すでに公開されている ものがありました。それはFの試作品です。世界的なニコンマニアの組織に「ニコン ヒストリカル  ソサエティー」という団体があります。 世界中で400人くらいのニコン大好き会員がいらっしゃるそうですが、そこから発行された今年 9月の会報にこういう記事がありました。そこには、80年代の日本カメラショーの展示にFの試作 品があったという文章とともに、ガラスウィンドー越しに撮った現物の写真が掲載されております。 実際社内の倉庫にはその現物が保管されています。これがそのFの試作品です。(F試作品) 見てお解りのように量産機とはまったく違うファインダーの形状です。ファインダーの脱着はでき ますが、ここに妙な窓がありますし、ここにも見慣れないレバーがあります。中を覗きますと、そこ にも違うところがいくつかありました。これは今解析をしている最中でありまして、先ほど申し上げ ましたようにこれが何であるかということや、創意工夫がどのようにして現代にまで繋がるFマウン トに結束していったのかというお話ができるようになると思います。どうかそれまで少しお待ちくだ さい。 昔の工場の風景や製品、その後の重要な技術をご紹介致します。 左上の写真ががレンズ計算をする当時の職場です。大勢の女性従業員が対数表を使って、ひ たすら光学計算をしておりました。まだこの時には計算機がありませんでしたし、タイガー計算 機なども出る前の頃です。その後最新鋭のリレー式計算機が導入され、かなりスピードアップが 図られたようです。 右下が後に現在のステッパービジネスへと繋がる光学技術の一つの頂点ともいうべき、ウルトラ・ マイクロニッコールレンズです。フジヤカメラさんでも以前に50oF3.5のマイクロニッコールレン ズで再現実験されていましたが、さる研究機関では岩波文庫版樋口一葉の「たけくらべ」全ペ ージを切手大のフィルムに記録するという実験に用いられた高性能なレンズです。現在のステッ パー用には超々高解像度レンズが装着されていますが、そうした技術の礎となったのがこうした レンズでした。さらにこうした工程に欠かせない微動制御装置、ミクロン以下の単位で微少にも のを動かして制御するという精密技術も戦後のニコンの大切な技術となったわけです。 少しばかり話はそれますが、ここからはニコンの歴史というよりも、広く日本のカメラ産業全体の お話しをしたいと思います。 日本のカメラ産業史におきましては、ニコンもいろいろと寄与致しましたので、それを紹介致しま す。これは戦後の1960年以前に出されましたカメラのほんの一部です。とても懐かしい機種が並 んでいますが、こういう製品から始まって何故日本のカメラ産業がここまで盛んになったかという ことをお話しいたします。 まず政府や連合軍総司令部(GHQ)が、輸出促進に協力してくれました。米兵も写真を撮るの が好きだったようですので、日本の産業復興のひとつとしてこれは輸出したらどうかとそんな話 があったようです。最初の頃は皆さんご存知のように外国製カメラを貪欲に模倣しました。そうし たカメラは、ライカもどき、コンタックスもどき、ローライもどきと呼ばれることもありました。ニコンも 例外ではありませんでした。色々と良いとこ取りをして作ったわけですけが、外国製品の真似を して、さらにそれを安く売るという事に成功した時代がありました。何となく今の中国を見るようで すが、そういう努力から始まった産業が、実際にものが出来上がりますと販路を拡大し、アフタ ーサービスもきちんとやろうということで、戦後すぐの安かろう・悪かろうという日本製品も徐々に 品質が向上してまいりました。さらにその後は、独特の技術を開発して製品に取入れるようにな りました。生産の合理化や品質向上にも熱心に取り組み、日本人持ち前の器用さを発揮して、 電子技術も積極的に取り入れました。 さらに最新の技術、例えば現在のデジカメに継がるような技術も開発してまいりました。そういう 歴史をたどりながら、日本の写真産業は大きく成長することができた訳です。かつての模倣の時 代から、今では世界のカメラの最大原産国となっています。現在は世界のカメラ産業の内、70数 %が日本ブランドのシェアと言う時代になりました。 もう一回細かく振り返りますと、48年にGHQから輸出の促進令が出ました。 その後振興会(JCII)が発足し、運輸大臣を務められたことで有名な森山欽司さんが初代の理 事長として就任されました。かつては輸出向けカメラやレンズにはすべて黄色いラベルが貼っ てありました。このラベルは協会がチェックをし、一定の基準を満たしている製品であることを証 明したもので、このラベルを貼ってある製品であれば輸出をしてもいい、というお墨付きの印でし た。現在の品質は十分に高くなりましたので、既にこう言うラベルはなくなりましたがかつてはそ うした管理を業界自らがしていた訳です。さらに発展して工業会もその次の年くらいにでき、何と か日本のカメラ産業も軌道に乗ったと思っていた矢先の54年、ライカのM3ショックに見舞われ ました。日本のほとんどがが二眼レフやレンジファインダー、ニコンであれば未だS型でよちよち 歩きながらカメラを作っている時に、とんでもないM3が出て来ましてカメラ業界は驚天動地の渦 に巻き込まれてしまいました。これが日本のカメラメーカーの方向転換に寄与し、一眼レフなど 新機構の機材の開発に注力するようになりました。 1955年、アメリカのニューヨーク、JETRO内にカメラセンターを作りました。輸出促進令が出てか ら数年後に、いよいよ本格的に貿易に乗り出そうということが始まったわけです。この写真は、そ の時ニューヨークに旅立つ羽田空港での出陣式の様子です。先ほどの森山さんとオリンパスの 下山さん、ニコンの小秋元といった顔ぶれが見えます。ニコンの小秋元はその後社長になった 人物です。こうやって海外、まずはアメリカに売り出しに行こうと華々しく旅立って行きました。 さらにそれから国内に光学工業技術研究組合なども出来、その翌年には実質的な輸出が始ま りました。 当時我が国には、JとUとXを除くあらゆるブランドがあったそうです。ABCDEFG、、、とアルフ ァベットが26文字あり、ニコンはNで始まりますが、その中でJとUとXだけがなかったということで すから、夥しい数のカメラメーカーが四畳半メーカーも含めて、この時代にはあったことが想像 できます。 先程も触れましたように、日本のカメラ産業は模倣から始まっていましたので、デザインセンター の中にデザインもきちんと登録をして、管理していこうということを始めております。この頃は、カメ ラに限らず日本の産業界全体が、まだまだ発展途上にありました。車でもドイツやアメリカの製品 とは比べものにならない粗末なものでしたが、そんな時代に、いち速く組合を作ったり協会を作 ったりしたのが写真産業でありました。それまでのカメラ生産は模倣と低賃金でやるものでした が、大量生産と効率化をして安価に、さらに独自の電子化ができるようになりましたので、それ から数年後には当時のカメラ輸出の一番の国だったドイツをあっという間に抜いてしまいました。 1967年にはすでに世界とのそういった戦いは終わっています。ですから他業界で取り沙汰され た輸出関税障壁などという問題も、幸いにカメラの場合には一度も経験せずに済みました。 これは現在に至る市場の変遷です。 赤い棒線がフィルムカメラの生産台数で、ピーク時には4,000万台強です。デジタル化が10年 程前に始まりまして、瞬く間に増 えまして現在は一億数千万台になっています。すでにフィルムカメラのピークの4倍近くまできて おります。 幸いなことに、フィルムのままで何もなければ徐々に市場が小さくなってしまったと思いますが、 デジタルカメラの出現のお陰で再びこれだけ活況を呈しているというありがたい状況であります。 カメラは、世界の生産台数の70数%が日本ブランドとして生産されています。車も、液晶・プラズ マテレビも、他の電気製品をはじめとした日本の産業の中で、これだけのシェアをとっている業 界は多くはありません。もちろんカメラのマーケットの規模そのものは、それら大きな業界よりも 一桁、二桁、小さいものですが、しっかりと日本が発信基地になっているという、国内では珍しい 産業のひとつです。 これはカメラショーの歴史です。懐かしい「日本カメラショー」は、1960年ぐらいから始まりまして、 最初は高島屋の上の方でやっておりまして皆でよく行きました。フロアーを変えますと、日本のど こかの特産展が開かれていることもありまして、そこでお土産を買って帰ったこともありました。 当時の「カメラショー」は非常に混んでおりました。だいたい全国で3万人以上の集客力だったよ うです。名があちこちにいまして、例えばスリックの森泰生さんの講釈が始まりますと、狭い会場 に山のような人だかりができました。そういう方が色んなメーカーにおられました。 その後、デジタルが徐々勢いを増してきますと、イベントの名前も変って来ました。「フォトフェス タ」「フォトエクスポ」、最近では「フォトイメージングエキスポ」という名称で開かれていました。 今年度からは、CIPA(カメラ・映像機器工業会)が一念発起して新しいイベントを立ち上げると いう予定になっております。 来年の3月11日から横浜のみなとみらい地区で「CP+(シーピープラス)」という、いわゆるカメラ ショーを行います。何故、ここでこんなことを申し上げるかといいますと、CIPAの中で、こういう イベント類の審議会があり、その委員長を私が務めているからです。このような不景気なときこ そ、多くのお客様にお越しいただきたいと思いまして、微力ながら宣伝に務めておりますので、 是非おいで下さい。 ここで話題が変わりますが、一眼レフの一桁シリーズは、継続性のあるコンセプトをきちんと貫い ておりますので、これからそれをお話し申し上げます。 Fというカメラは、「最良の品質」、「使い易さと多様性」、「自動化」、この3つがコンセプトでした。 ニコン的品質を達成し、速写性を備え、万能カメラでなければならない。さらに自動化も計らなく てはならないということです。当時としては相当画期的なシステムカメラを作りました。先ほどお話 ししましたように品質が優れているということは当たり前ですが、それ以外にもシステムカメラの証 明として、レンズを数十本、長尺のフィルムマガジン、至れり尽くせりのリモコンといった多種多 様な製品群をあっという間に出しました。これらの思想はこれ以来ずっと貫いており、「自動化の 追求」、「システム化」、「基本機能の充実」がニコンの一桁シリーズの根本思想にはあります。 それを二桁、三桁の製品にもフィードバックしていくことがニコンのカメラには受け継がれてきまし た。ニコンは歴史の古い会社のため、保守的なイメージをお持ちの方がおられるかも知れません が、このように先進的な自動化について昔から常に積極的に取り組んで参った会社です。自動 化で便利なものは、得てしてライバルメーカーに先を越されるということは時々あることですが、 例え一番乗りができなくても、自動化を通してさらに使いやすい道具を提供するということを念頭 に仕事をしております。 F2はFに「人間工学」を加えました。全体に丸くなって持ちやすく、シャッターボタンの位置も本 来あるべき場所に移動しました。ただFの時代が長かったためでしょうか、当初はこのボタン位 置の変更について批判の的になった事もありました。 F3は「エレクトロニクス」による自動露出機能を大幅に導入致しました。 当初はこうしたプロ用のカメラに、余分な機能をつける必要はないと怒られもしましたが、そうい う人たちも、今ではデジカメのフルオートを使って盛んに仕事をしております。 それからF4には「AFとモータードライブ」を内蔵しました。 これに対してもキヤノンがやるのは良いが、ニコンにはやってほしくないといわれました。カメラマ ンには、自分で鍛えた腕がある、巻上げもピント合わせも長年鍛えて、体に染み付いているから まったく必要ない、などとずいぶん言われましたが、そうした方も含めて相当多くのカメラマンが より便利だったEOSを使ったと言う状況でした。 F5ではそれにもう一つ、プロ対応に集中して「スピード」を付け加え、さらに大量の写真を、さら に簡単に、さらに確実に撮れるカメラを目指しました。 F6は視点を変えて、あえてプロ用であることを志向しませんでした。ひょっとすると先の時代に F7はないかもしれない、「デジタル時代最後のフィルムカメラ」になっても良いと決意して開発し ました。従いまして一桁シリーズでは初めて交換ファインダー機能を無しとし、一方では今後も 長く作れるように工夫しております。 デジタル一眼としてのD1のスローガンは小気味よく、「きれい」、「早い」、「使い易い」です。 早い、使い易い、というスローガンは先輩のF一桁シリーズと類似ですが、きれいという形容詞が 付け加わりました。 デジタルカメラには、画像センサーや画像処理のプログラムが全部入っています。いわば感材 と現像所とラボマンがすっかり入っている道具ですので、このきれいという部分もニコンがやらな くてはなりませんでした。それまではフィルムメーカーや現像所に任せておいた部分を、我々が 独自でやらければいけない、とにかくきれいを最初に持ってこないとお客さんは使ってくれない と、そう考えた訳です。そうしたことから、このカメラのコンセプトが「きれい」、「早い」「使い易い」 となったのです。おかげさまでこの3つのコンセプトによる製品開発がPMA(米国 フォトマーケ ティングアソシエーション)に認められ、先代のリーダーが受賞するという名誉に至りました。 D1の後継機同様、D2においては用途によって機種を二つに分けました。当時は早く撮れるカ メラと、画素数の多いカメラというのは両立が難しいという技術状況でしたので、D2x、D2Hとい う2種類のカメラで役割分担をさせました。 D3では、「写真を変える」というスローガンの元、さらに使い方、撮り方も変えてしまうと、そういう 気持ちでやってきました。これらの話題にはまたあとで触れさせて頂きます。 ところでF一桁シリーズの中の偶数機種はダメだったということを、時々言われます。同様の思 いは皆さんの頭の中にもあるかも知れません。 これら50年代から今までのすべてのフラグシップ機を並べてみますと、確かにF2とF4、D2は成 功とは言えない、あるいは失敗と言う結果です。その時々でお客さんを失っていますし、特にF 4とD2では多くの人がEOSに流れていきました(笑)。 どうして偶数が失敗したのかということを考察しますと、いくつかの理由がわかりました。まず一つ 、Fは大成功しました。先ほど申し上げましたように、Fの開発に挑んだ人たちは、戦前には違う 精神で仕事をしていた人たちでした。その志を以て仕事をしていましたから、本当に良いものが ライバルのない市場で出来上がりました。 そこからF2に行くときにうまく行かなかったのは、ひとつにはこの新製品までのスパンが長すぎ た事にあります。Fに十分慣れていてまだまだ十分使える、F2など必要はない、と言われたよう です。今でこそ、F2は最高に完成された珠玉のメカニカルカメラだといわれていますが。実は F2の導入はなかなかうまく運びませんでした。またもう一つの理由にFの設計者の多くが一戦か ら退いて、新しい人が設計をすることになった事もうまくいかなかった理由のひとつのようです。 メカに関わる問題もあったようですが幸いそれは直ぐに改善されています。 F3ではF2で反省した人たちが一線で設計をしました。自動露出の内蔵には多少反発もありま したが、高度の信頼性とシステム化によってうまくいき、結局ロングランを達成したのです。しかし この時代に慢心がありました(笑)。と言いますのは、このF3以前もF3の時代も他のライバルメ ーカーには一切出番がありませんでしたから。 その頃はおそらくプロカメラマンの90%がニコンで仕事をしていたのではないでしょうか。そのた め、世間の流れを見る目がなかったということもいえるかも知れません。 F4を出しましたが、ほぼ同時に出てきたのがEOSでした。ここまでプロ市場を虎視眈々とねら っていたライバルが色々考え、マーケットリサーチもきちんと行ってEOSをぶつけて来たわけで す。AFを初めとした自動化で便利なEOSに対し、まだまだ一発必中で撮る事が中心だと考え ていたニコンは、流れに乗れず多くのお客様を失ってしまいました。 その後もう一度反省して作ったカメラがF5です。お陰様で高い評価をいただいておりました。 F3に勝る高信頼性とシステムだったのですが、残念なことにF4で流れてしまったお客様を、 これで元通りに取り返せるまでには至りませんでした。さて、偶数でまた失敗を繰り返してはいけ ないということで、ユーザーがデジタルに移行する市場の中でのフィルムカメラのあり方を懸命 に考え、対象コンセプトを変えてF6を開発いたしました。まだ成功したかどうか結論を出すには 早すぎますが、自信を持って世に送ったものですから、きっと大丈夫だと思います。 その次はD1です。D1自体は大成功でした。その当時デジタル一眼は200万円、300万円と高 価で、サイズもかなり大きなものでした。それを小さく、軽く、しかも安くして、さらにきれいな写真 が簡単に撮れるようになりましたので、これはみごとなものでしたが、再びここでも慢心がありまし た。あたかも偶数の法則のようにD2ではうまくいきませんでした。F4時代から変革して来たワー クフローがデジタル時代にはさらに一層変わって来た状況に乗れなかったのです。 さらに考えなおしまして、D3ではご存じの評判を得ることができました。現在はD4にかけて、開 発の動きが始まっております。D4という名前になるかどうかわかりませんが、普通ですとD4でし ょう。これもまた偶数の呪いに連なってしまうかも知れない(笑)、しかしそうはさせないぞと、日々 苦労をしております。 偶数桁の反省をしますと、まずFは偉大過ぎ、そして長すぎた事にあります。 シャッターボタンが後ろの方にある事、普通はあの場所はベストではない筈なのですが、プロカ メラマンの皆さんから、長い間に俺の指はFのシャッター位置に自然と収まるようにできあがって いると指摘されたのです。このように繰作系を変えるというのはなかなか難しいことは今でも同じ です。たとえそれが本来正しいことであっても、長年の慣れに対しては十分考えるものだと、そう いうことが良くわかったと聞いています。F4でうまくいかなかった最大の理由は、当時のワークフ ローの変化の兆候をよく理解していなかったことにあります。この頃のプロのカメラマンの撮影ス タイルが、かつての一発必中から変わってきたのです。その撮影方法を敏感に気づき、提案し てきたのがEOSを抱するキヤノンでありました。とにかくたくさん撮ろう、全部100点でなくてもい いから、たくさん撮って歩留まりを上げて、生産性を良くしよう。EOSというのはそういうカメラでし た。その当時の我々の試験条件ではEOSの合焦精度はニコンより劣っていましたが、使えるコ マが非常に多かったことは確かです。しかしそれがちょうど報道機関に限らず、写真家の速写 性志向に合って来たのだと思います。もちろんニコンもそういったワークフローを察知し、プロ 機材の要素として、F4にモータードライブやAFを入れましたが、向こうの方が一枚上手でした。 これがワークフローの変化の掴み方の得手不得手の現実でした。 さらにD1がうまくいっているその間に、少し遅れを取っていたEOSが何をしてきたかといいます と、トリミングしてでもいい絵が撮れるように、画素数を上げ、ノイズを抑えた画作りを提案してき ました。日の丸写真でもいいから画面の真ん中にある程度ピントの合った写真、測距点を多く用 意して主要被写体にAFが対応し、あとでトリミングして完成させるという提案が見事にヒットしまし た。そのときニコンのD2Hは4メガしかありませんでした。我々は十分だと思いましたが、トリミン グして使うのには足りませんでした。さらにトリミングするとノイズが見えてしまうという問題も起きま した。それが失敗の理由でした。先ほど申し上げましたF6は、仮にシングルFの最後だとしても 、恥ずかしくないFを出しておこうという気持ちを込めて作りました。今ここで仮にとあえても申し 上げましたが、本当に、本当に仮にではありますが、F7が欲しければ、皆様の声を大きくしてい ただければ、今なら不可能ではありません。フィルムの巻上げ、巻戻しというのは、高度な技術 を必要とします。フィルムごとに動きが違いますし、温度によってもその挙動が変わってきます。 フィルムというのは実際に生ものですから、そういう技術者がニコンにいる間に、フィルムカメラを 作って後世に伝えないともうできなくなってしまうかも知れません。 さてD3については写真を変えよう、撮り方を変えようと、そういう提案をしてここまでまいりました。 現在、失ったユーザーを必死に引き戻している最中です。この写真は、もう1年以上経ちました が、北京五輪でやっとニコンが復活したことを取り上げてくれた新聞記事です。前回のバルセロ ナでもアテネでも、ニコンはまったくシェアが低く活躍できませんでしたが、北京ではこれだけニ コンが挽回したということが報じられています。報道関係のカメラマンの多くが、ニコンで育って 来た人達のようで、ニコンが五輪競技場に帰ってきたことが嬉しかったのでないかと思います。 そんなこともあって、このように記事として取り上げてくれたのでしょう。 それからFLASHが、「五輪のカメラ戦争」というタイトルで、8ページもの特集を組んでくれました。 前後の記事があの内容ですので勇気を出してコンビニへ買いに行きました(笑)。会社で特集 ページだけを切り取ってそれ以外はすぐに捨てて、社内で回覧いたしました。こうしたシェア競 争は現在も続いています。 世の中にはもっと面白がってくれる人がおりました。この写真は北京五輪のカメラマン席の風景 で、6-70人いるでしょうか。この写真の機材に自分でカラーで印をつけてくれてネットに上がっ ておりました。もちろん黄色がニコンで、青がキヤノンです。これを見ますとわずかにニコンが勝 っています。このような掲載があるのを見つけ、わざわざ良かったねと教えてくれた人がありまし た。これは我々が依頼して撮った会場での写真です。現場で実際に、どれ位のシェアを取って いるか一生懸命検討していますので、あるところに頼んでこういう風景を撮ってもらい、大井町で シェアのカウントをしました。白いレンズは非常に数えやすいですのですが、ニコンの黒はちょ っと陰に隠れると見えなくなっってしまいますし、レンズが真正面を向いているとその区別もでき ません。そのため、少し斜めのアングルが良いのです。こうした写真を、柔道や、水泳といった いろんなシーンで数え、個別に評価、解析を行っています。このような時は、顔認識などよりもレ ンズ認識(笑)があった方が、大変ありがたいと感じました。 実は同じようなことがF5を出した時のアトランタでもありました。あの時は「Black is back」 といって喜んでくれました。それまでEOSの白レンズにやられっ放しでしたから、F5で黒いレン ズが戻って来たということです。以上のような歴史を今から眺めますと、紆余曲折にはその理由 が必ず存在しますので、今はとにかく必死の挽回をし、次回は絶対に慢心しないよう心がけて おります。 これは「JRPA 日本レース写真家協会」会長の小林稔さんが撮られた写真です。ル・マンでこ ういう写真を撮って来てくれました。こういう場所から夜景に沈んで行く高速の車や、その他にも 色んな写真を撮ってきて下さいました。オートフォーカスも完璧に来ていますし、ノイズも出てい ません。この小林さんとは長いお付き合いになっていますが、実は最初の出会いはD2Hが出 た時のCAPAでの対談です。六本木にある車系のスタジオでの、当時はEOSユーザーだった 小林さんとの対談を行ったのですが、「D2Hはどうですか?」と聞きました。対談前に試写をし てくれていた結果、小林さんからは「後藤さんこれダメだよ。」と。「AFも、それからノイズ対策も キヤノンの方がずっと先を行っているよ。」と、そういうことを単刀直入に言われた対談になりまし た。対談記事そのものにはいくつか誉めた所もあるものに仕上げてありましたが、実際の対談や 記事の裏では、「ダメだね」といわれていたというのが、真相であります。  その前から完全なEOS党であった小林さんが、二年前のD3では機材一式をニコンに変えて、 こういうすばらしい写真を撮ってくれた訳です。実はそういう方々が他ジャンルにも大勢おられ まして、我々には大変ありがたいお話だと思っています。苦しい時もありますがこのように時々 努力が報われることがあります。ついでにこれはル・マンの風景でニコンは広告を出しています。 ちょうど昨日(12月4日)から始まったのですが、小林さん率いるレース写真家協会の写真展が 新宿のエプサイトで開かれています。新宿から都庁に向かう途中にある、エプソンさんのギャラリ ーです。レースに関わる凄まじいばかりの写真が展示されています。最近の若い人は車離れを しておりますが、素晴らしい写真を見ることで、再び刺激を受けるのではないかと思います。レ ースカメラマンには残念ながらニコンのユーザーの方がまだ少ないと思いますが、展示されてい る大きな写真4枚の内の2枚は、ニコンで撮ったものです。それ以外の写真数十枚の中にも多 くのニコンが使われた写真がありますので、車好きな方は是非、今日お帰りのついでに、新宿ま で行ってみて下さい。直接行くのではなくて、その前には、フジヤカメラさんにも必ず寄ってくだ さい(笑)。 その小林さんがおっしゃるには、昼間も夜も綺麗な写真がガンガン撮れ嬉しいと。例えばこの写 真ですが、他のメーカー機材ではヘルメットにピントが合ってしまって肝心の目に来ないことが あったようですが、D3で撮るとまるで目の毛細血管にピントが合っているような写真が撮れる、 ということを喜ばれていました。拡大すると、その言葉の真実が良くわかります。 D2で撮れなかった写真が非常に楽に撮れるようになってまいりました。レース系の方々以外に も鉄道写真家、舞台写真家、色んな方々がライバルから戻ってきて頂いているのはありがたい 事です。 機材だけではなくて、サービスでも、どこにも負けないように頑張っています。昔からニコンのサ ービスは景気の良し悪し、シェアの有り無しに余り関係なく、可能な限りのコンスタントなレベル を維持しています。 まだ完全ではありませんが、どのイベントに行ってもニコンのサービスがいるように心掛けていま す。例えばD2H時代ですが、9割5分がキヤノンのユーザーであっても、少数のニコンユーザ ーのためにきちんとサービスのデポを出してお迎えするということを貫いてまいりました。現在は、 機材の良さだけではなく、こうした日頃のサービスの積み重ねがうまくかみ合わさっている時代 ではないかと、かなり手前味噌ではありますが、そのように思っています。 次にニコンの信頼性についてご紹介します。 冒頭に申し上げましたように、今日のために何故1万5千枚の画像に目を通したかと申しますと、 NASAから皆さんに見せても良いと許可をもらった写真の数が1万4千数百枚あったからです。 今日はその中から選りすぐりを持って参りましたので、NASA以外の画像を加えますと、大体1 万5千枚になると言う勘定です。 NASAのHPでまずサムネイルを見て、これはという絵を拡大して確認し、ダウンロードしてプレ ゼンに仕込んでまいりました。今からそれをたっぷりとお見せ致します。 これからお話するのは、ニコン・スペースカメラの黎明期から現在まで、他メーカーのスペース・ カメラについてのお話と、ニコンが宇宙用に何を改造して来たのか、といったことを画像、最新 の状況などの資料です。 私とNASAについては、F3・F4・F5・F90、それからD2Xs、D3、さらにレンズの対応に関わ って参りました。こうした機材への要請を受け、先方との交渉、実際の改造やその他のサービス を担当してまいりました。 一寸懐かしい写真がありますのでまずそれからご覧頂きます。 今はNASAといっておりますがこの名称は1958年に変更されました。当時のNASAはロケット にチンパンジーを乗せたりするレベルの宇宙計画でしたが、ある時ガガーリンが世界初の有人 宇宙飛行にいきなり成功してしまいました。それに慌てたアメリカ、ケネディ大統領が60年代のう ちには月に行くと宣言したのがその数ヶ月後でした。当時いろんな開発をしておりまして、これは X−15です。私は子供時代からこういう飛び道具が好きなものですから懐かしく思い出されます 。これらは宇宙飛行士とジェット機の写真で、話によりますと飛行士は自前のジェットを与えられ、 国内の移動は自分で操縦して行くのだそうです。 ニコンに限らずスペース・カメラは随分存在していたことが判りました。 古くは航空用の4×5カメラを使っている時があったようです。写真がどこにもないのでどのよう なものかわからないのですが、K−25というのがありました。上空偵察用に使ったり、マーキュリ ー計画用にも使っていたようです。 また皆さん良くご承知のスプリングのチャージでフィルム巻き上げを行うロボットというカメラも使 われていたそうです。何かの記事で読んだのですが、電気系のトラブルだけはなかったと冗談 が書いてありました。逆に全部メカで動くカメラですのでメカトラブルはきっとあったのではない かと思います。それからライカもありました。ジェミニ計画のときに使われていたようですが、赤外 フィルムを入れてどこかで使ったということです。それからキエフも。ただこれはNASAではなく て、ソ連のソユーズに使われていたカメラです。以上のカメラはそれ自体の写真も、それで撮影 された写真も、残念ながら1万4千枚の中にありませんでした。 私が調べたNASAの写真に証拠として残っているカメラは、ツアイスイコン、ミノルタ、リンホフ、 ハッセル、コダック、オリンパス、そしてニコンでした。 これは、ミノルタのスペース・カメラです。ご存知の通りグレンさんが乗って使用したのがミノルタ のハイマチックです。後からハイマチックそのものだとわかったのですが、アンスコオートセットと いうアメリカにOEMで供給していたカメラがこれでした。 ラバーをはがし、巻き戻しのノブを大きくし、上下を逆さにしてグリップを付けるという改造がされ ています。フレンドシップ7という宇宙船に乗せられたという事から、その後ハイマチックセブンと いう名前に変えた、ということらしいです。 飛行士自身がヒューストンのどこかのカメラ屋で普通に買ってきて改造をしたようです。これがそ の時の写真ですが、カメラが写っているものは一枚もありませんでした。 それからミノルタはスペースメーターという真っ白な露出計をNASAに提供しています。最近で はTBSの秋山さんが真っ白なα8700iミール仕様を使って、ロシアの宇宙船に乗り込んでいた 事はご存じの方も多いと思います。 ツアイスイコンのコンタレックスレックス・スペシャルというカメラも使われておりました。エドワード ・ホワイトという人の初の宇宙遊泳で、たった二分だったらしいのですが、その時に使ったカメラ です。こちらには画像がありました。 少々わかりにくい画像なのですが、ファインダーを外して蓋をしただけで、その他は何も変えて いないようです。遊泳中の方向転換用としてパイプからガスが左右から発射される装置があり、 それに取りつけたのがこのカメラです。ただしこれで撮った写真というのがほとんどアンダーで、 公開できたのはたった一枚だったという記録がございました。 それからリンホフも使われておりました。スペース・カメラとしてはおそらく最大の、水中カメラかと 思うような4×5のカメラです。大版のフィルムですので、平面性を出すためにガスか何かの圧縮 空気で吸引して平面性を保っていたようです。この写真はシャトルか何かの宇宙船の中ですの で、リンホフも実際に宇宙まで行ったようです。 スペース・カメラとして有名なのが、このハッセルブラッドです。 これの歴史はニコンとどちらが長いのかわからないくらい、歴史と実績があります。 最初に使われたのが62年でこの時は500Cでした。これもヒューストンかどこかで宇宙飛行士が 自分で買ってきたそうです。 この時代のNASAは、まだそれほどシステマチックな動きをしていなかったようです。途中まで は無改造でしたが、あるときからミラーをはずす等の、改造を始めました。 ワイド撮影が必要になりましてSWCも使われましたが、同時期ではELAが主力かも知れません。 それから203FEもありましたし、これは月面着陸した際のの撮影で使われた機材のようです。ハ ッセルで撮った写真を見ますと黒いクロスのマークが必ず入っています。何の解析用かよくわか りませんが、25点のクロスマークが写し込まれるように改造されたカメラです。そうした改造をした 203、それから最近は、この553ELXが使われています。 この間、といいましても10年くらい前のことですが、ジョン・グレンさんが何十年ぶりかでもう一回 宇宙に行ったときに使ったのが、この553のELXでした。 これはストラップが布製に改造してありまして、潤滑油も変えてある点はニコンの改造品に類似し ています。10セント玉がカメラの横に貼り付けてありますが、これはどこかにあるコインスロットを 回すための工具だと言う事です。NASAの正式な備品として10セント玉が採用されているという のは面白いことです。これがハッセルで撮影された月面での画像です。残念ながらニコンでは ないことが悔しいのですけが、こうした有名な写真は全部ハッセルで撮られています。 シャトル内で浮いているハッセルの横に10セント玉らしいものがテープで押さえつけてあるのが 判ります。何かのときにこれをはがしてどこかを回して調整か分解のために使ったのでしょう。こ の写真のようにこのように多くのハッセルがシャトルの中には乗っている時代もありました。 次はコダックです。 この写真は実は何なのか良くかわかりませんが、コダックのロゴが大きく出ている所です。衛星 に関係する何かの設備だと思いますがよくわかりません。 こうしたF90を母体としたコダック製デジタルカメラが採用されております。その後はF5を母体と したデジタルカメラとなりましたが、両方とも6メガの時代でした。D1のように一体化する前の機 材ですので、非常に縦長の使いにくいものでした。 コダックのデジカメ時代が結構長く続きましたが、つい最近D2Xsにすっかり切り替わっていま す。ところで宇宙飛行士というのは大変でありまして、本来の業務の他に写真を撮るだけでは なく、装置についてある程度のメンテもできなくてはなりません。この写真は、レンズを外してセン サーに付いたゴミをブロアーで掃除しているところです。 次はオリンパスです。 今年E3が乗ったという情報がありました。シャトルで国際宇宙ステーションに運び、日本担当の カプセル内で使われたということです。宇宙飛行士と並んで写っているこういう画像もありました。 ここに書いてありますようにJAXAが催した何かのイベントの中に組み込まれたようです。 それからこれはムービーです。 昔は16_のフィルムで撮ったということですが、最近はいろいろ変わっているようです。これはち ょっと古いアイマックスです。地上ですと、30kg、50kgの重さのものですが、宇宙なら一人で操 作できるのは便利です。きれいな宇宙や地球の画像を撮るためにはアイマックスが不可欠なよ うです。それからこちらは船外には出ませんが、ソニーとキヤノンのビデオカメラが写っていた画 像です。ビデオカメラをキヤノンにするかソニーにするか検討中である、ということをNASAのス タッフから聞いたことがありますので、試しに両方とも使っている時の画像かも知れません。最終 的に現在はどうなっているかまでは調べがついておりません。 さて、スペース・カメラの改造内容に入らせていただきます。 まず基本機能ですが、これは当然高性能でなくてはなりません。ただし、幸い基本機能には手 をつけなくて済んでおり、耐久回数その他は市販品のままです。つまり基本機能については量 産機と同じで良いとNASAからお墨付きをいただいております。 ただし信頼性に付いては最高のレベルが要求されます。先ほどお話しましたように、初期の頃 は宇宙飛行士が個人的に町のお店で買ってきたものを使っていましたが、その後記録性を非 常に重視して、記録を後々の解析に使おうということになりました。 何よりも大事なことは、必ず写るということなのです。宇宙空間では、故障しても修理ができませ ん。宇宙飛行士はいろんな能力を身につけて多種の訓練をしておりますが、特殊な空間です から、そうそう簡単ではありません。 厳密な品質管理の下、100%の信頼性が必要とされました。 さらには操作性です。宇宙飛行士は非常に特殊な環境と心理状態に身を置きますので、つね にプールプルーフでなくてはいけません。 そうした諸々の要求に応えるためにいろいろな改造をしてまいりました。ひとつの例が、宇宙飛 行士のこの手袋です。指先にはチップと呼んでいるプラスチックのキャップがついています。滑 り止めの効果はあると思いますが、指先の動きは大変不自由になります。このグローブをはめた ままでカメラを操作しなくてはなりませんから、操作できるものの大きさというのは限られてきます し、場所も限られます。 時には船外で右肩に乗せてシャッターを切るだけ、という使われ方もされますので、自動で良 い絵が撮れなくてはいけないという必要性もあります。 従いまして、これはF3の頃の改造例ですが、レンズにはこうした突起を付けてグローブをはめた ままでも操作が容易にできるようになっております。さらにシャッターボタン、その他各部分のレ バー類なども大きくして、操作性を良くしてあります。 品質条件についても大変厳しいことを言われています。この厳しさは毎回増している傾向があり ます。日本でも輸出規制がありますが、宇宙でも同じように多くの規制があります。たとえば火災 防止は最優先です。火災の原因になりそうなものは一切使用してはいけませんので、カメラ内 でのガスやスパークの発生は厳禁です。 それから宇宙船は離着陸の時には激しい振動に見舞われますので、それによってネジが緩む ようなことがあってはいけません。 放射線も宇宙空間では地球以上に飛んできます。α線、β線、その他、その影響で画像が消 失してもいけません。 しかも宇宙遊泳するときには真空中に出ますから、日なたへ行くと200℃、影になればマイナス 100何十℃になります。こうした状況でも確実に動かなくてはいけませんし、湿度試験も厳密に 行われます。 結露することも時々あるようですから、そうしたあらゆる点を想定した大変高い基準が要求されて おります。また振動に似てはおりますが、加速度試験にも全部クリアしないと採用されません。 単に持って行く荷物だけでも厳密なのですから、ましてや実際に現場で使うというために非常に 厳しい条件が突きつけられのは当たり前です。幸いニコンではこれらをすべてクリアしておりま す。 F3時代までは、これからお話しするような改造工事をしておりました。 そもそも普通カメラに使用されているようなラバーとプラスチックは基本的に使えません。ラバー やプラスチックは、真空中に行きますと質量が減ってきます。何かの成分が蒸発して内部がスカ スカになってしまうようです。そのために、どうしてもラバーやプラスチックでないと成立しない場 合以外には、NASA指定の材料に切り替えます。 それから潤滑油ですが、これも真空中に行きますと通常のものは蒸発しますから、NASA指定 の潤滑油に入れ替えます。少量でも大変高いもののようで、現在は仙台ニコンに予備が置いて ありまして、いつ修理で戻ってきても油を入れ替えることができるようになっております。 ハンダ付けの管理も非常に厳しい時代でした。そもそもハンダ付けが一番機材の信頼性を落と す要因ですので、目視試験でも、ハンダがきちんと付いているか明確に判ることが重視されました。 ハンダをあまり多く使用しますとカメラが重くなって、ひいてはロケット自体も重くなります。 ハンダの量そのものを厳密に減らさないと、ロケット自体の負荷にもなってしまいますので、最小 の量で、しかも目視で品質が判るという管理は大変厳しいものでした。 さらにコンフォーマルコーティングと呼んでおりますが、これはカメラ内部で電子部品からガスや スパークが発生しないよう、さらには部品が振動しないように内部の回路を全部コーティングす ると言う工事です。 以上のように大変な手間のかかった工事でした。幸いこの時代に比べますと、材料が進化した せいでしょうか市販品でも船外活動が可能となるようになり、使用材料範囲が広くなりまして、ほ とんど改造をしなくても済むようになりました。ただ油だけは真空中での作動を保証するために 今でも交換しています。 これはニコンFのスペース・カメラです。 70年代にSpaceのSを取って「Sチーム」というものをを結成し、そのチームが完成させたカメラ で、マットブラック塗装のニコンF フォトミック FTNです。 余計な反射があってはいけませんので、操作するための最低限のところだけ残して黒く塗られ ています。船内のメーター計器に余計なカメラの文字などが写りこんで、万が一にも見誤まるよ うなことがあっては命に関わるからでした。最悪の場合帰ってこられなくなることも考えられます ので、基本的に無反射の真っ黒です。ご覧のように実にスパルタンな外観です。  このカメラがアポロ15号に乗ったのはF発売からかなり時間が経ってからでした。Fが59年に出 てから10年くらい経ってやっと要求が出た訳です。 そして71年にアポロ15号に搭載され、最初は55oのレンズでオゾン層の撮影をしたといわれて います。NASAのアーカイブからはこの一枚だけの画像が見つかりました。残念ながらどういう 状況で、何に使われたのかという記録はありませんでした。 ここでEVAと書いてあるのはExtra vehicular Activity の略で、宇宙船外活動の意味を表して います。 次はF2です。F2はFが長すぎたために宇宙遊泳用の改造要求はなく、市販品の使用につい てもNASAの記録画像にも見あたりませんでした。 ただロシアの宇宙ステーションで、こういうものが使われたという記事だけは見つかりました。宇 宙飛行士のチトフが乗っているときの船外活動、それから長期滞在をするときにどうやら持って 行ったようです。ほとんど無改造でありまして、懐かしい手書き文字が写し込めるデータバックが 装着されたセットです。何もなくては寂しいので、ロシアのミールに関する画像だけ用意しまし た。ロケットはこのように、NASAとはかなり違う形状をしています。ここはバイコヌールという基 地だと思います。降りてきた宇宙船は地面に激突し、真っ黒に焦げていると言う凄まじい映像が NASAのアーカイブにありました。 これがF3のスペース・カメラです。小さいタイプ(Small)と大きいタイプ(Big)があります。F3はま だ市販品の開発をしている途中にNASAから注文が来てしまいました。おそらくニコンからNA SAに、今こういうカメラを開発しているので、是非次機種に採用して欲しいう営業活動をしてい た成果があったのではないでしょうか。ただこちらまだ発売前の試作状態でありましたので、両 方並行して開発をしておりました。 今度は「S2チーム」というのを作りまして、3年間くらい活動しました。その後カメラの追加注文が あり、もう一回チーム活動をしてこともあります。 総台数が何台だったかのか定かではないのですが、この開発は大変でした。そもそも市販品で も、正式生産前には多くの試作機を何回も繰り返し作って確認し、量産にこぎ着けるということを しています。その段階ではいろんな失敗が見つかりまして、そこを変えあそこを変えということを 繰り返しては、直して行かなくてはなりません。 市販カメラはNASA特有の改造効率をあまり考えてなくて設計してありますので、試作評価結 果で修正されるたびに振り回されるS2チームメンバーは相当な苦労の末に完成にこぎつけた と記憶しております。 Fで非常に使いにくかった部分の自動化を徹底的にやってほしいという要求がありましたので、 自動露出を組み入れ、オートフォーカス以外のものは全部これに組み入れた多様性の高いN ASA用カメラが生まれました。この改造内容は信頼性が高く、しかも非常に使いやすい事がわ かりましたので、後々F3Pを設計するときにはこのときのアイデアをずいぶん組み入れさせて頂 きました。 スモールというのは、36枚撮りではなくて72枚撮りです。シン(thin)フィルムと言うフィルムベー スが薄いフィルを使いましたので、フィルムゲートの高さの段差が違います。市販の36枚撮りは 中に入りません。そのような薄いフィルムを使う前提で72枚撮り仕様としてあります。 こちらは大きい方のビッグです。背面のチャンバーが小さく見えますが、フィルムが薄いもので すから、これだけのチャンバーで250枚分のフィルムが入ってしまいます。 この画像は84年にF3が初めて宇宙遊泳に使われた時のものです。カメラを宇宙飛行士の右肩 に乗せ、レリーズケーブルが見えて少々不細工ですが、このように手元につながっており、右手 でシャッター切るのです。 F3にはデータの写しこみ機能もありました。先ほどの長尺の250枚撮りにも写し込み機能があり ますので、テストも大変でした。まだ公開されていないカメラですから企業秘密のため現像を外 部に出すわけにはいかないものですから、社内で現像をしました。長尺フィルムですので乾燥 も大変で、会社の中にワカメのようにフィルムを張り巡らして、乾燥しておりました。その時の被 写体は大井町の工場から見える東海道新幹線でした。それに使用されたフィルムも倉庫から 大量に出て来ましたが、写っているのはしょせん新幹線だと解っていますのできちんと見ては おりませんが、それでも歴史の一端を証言する貴重な遺産であることは間違いありません。 さらに、NASAにこのカメラを納入するときには、指定されたガスで密封した状態での梱包でし たが、税関を通るときには中を見せなければなりませんでした。これを拒否することはできませ んので、空港にガスを封入する機材も持ちこんで、一度開けて了承をもらってから、管理官立 ち会いの下で改めて封印して輸出するという手間のかかることをやっておりました。 以上のSmallやBigのように改造を加えたF3だけではなく、市販のF3も大量に使われました。 宇宙にさえ出なければ、そのまま船内活動でも使える管理がしてありました。地上でも多数のF 3が記録や解析用に活躍したようです。 F4では、F2の時と同様に改造の要求はなく船外活動の機会は訪れませんでした。ただ市販品 がこのようにシャトルの中だけで使われた証拠が残っていますので、おそらく相当な数の無改造 F4が使われた事と思います。 特殊な例ですが、デジタル撮影用に改造したF4も納品しております。残念ながら台数は覚えて おりません。 これは市販のF4からデジタルカメラ制御に対応するタイミング信号を外部に出し、NASAの開 発したモノクロデジタルバックと通信ができるようにしたものです。 画像のように大変大きなデジタルバックでしたが、画素数までは教えてもらえませんでした。 そのとき私はまだまだ若いときであり、打ち合わせでNASAに行きましたこれが、その時の先方 の開発者との記念写真です。 残念ながらF5、D2Xsの時代になりますと、皆さんにお話しできることがほとんどなくなってしまい ます。改造に必要なことは潤滑油を入れ替えるだけになってしまったからです。 信頼性を確保する事、各種の厳しい試験に合格する事だけで済みますので、外観は市販品と まったく変わりません。わずかな違いといえば、NASA特有のシリアル番号がどこかに刻印して あったりテープが張ってあったりと言う程度です。 ところでシャトルに載せる機材にはこのようなマジックテープがカメラレンズなどのどこかに貼って あります。宇宙空間は無重力ですから、シャトルの内部に反対側のマジックテープを張り巡らし ておけば、どこにでも置けるというわけです。後程その現場画像をお見せします。   現在のNASA現役のスペース・カメラはD2Xsです。 何故D3s時代の今、前機種のD2Xsが現役かと言いますと、先ほどお話しした各種の試験を通 すのに、長くて2年くらいかかってしまうからです。 厳しい試験自体を行うのに時間がかかる事に加え、もし何か不具合が見つかることがあった場 合にはその対応をしなくてはなりません。そのために、D2Xsの採用が決まった時にはすでに 後継のD3が出るタイミングになってしまいました。 このように、デジタルカメラは開発のスパンと市場寿命が短いためにフェーズが少しずれてしま います。 (講演直後、D3sがNASAに制式採用された旨のアナウンスがあった。前モデルのD3から品 質・信頼性検査がNASAで行われており、改造内容の少ない事でD3sが早々に合格したとの 事) F5は、先ほど申し上げましたようにフィルムを使ったF5自体は98年から、それにやや遅れてコ ダックのデジカメのベース・ボディーとしても使用されています。D2Xsの採用は一昨年(07年)、 D3が出た年にあたります。 スペース・カメラは、シャトルの内外だけではなく、国際宇宙ステーション(ISS)の中でも使われ ています。この画像はニコンが超望遠レンズと共に納入されたときのテストの様子です。おそら くクリーンルーム内でホコリが入らないように何らかのテストをしている様子のようです。この画像 もその続きです。 次の画像はニコンのスペース・カメラが実際に使われている現場です。こうした写真がNASAの HPにはたくさん掲載されておりました。 カメラだけではなく、レンズやストロボもいろいろな要求に応じて改造しています。レンズは先ほど 申し上げましたように、マットブラックにしたり、ピントリングや絞り環を操作しやすくするための突 起をつけています。これはUV撮影専用のレンズで、コーティングの変更をし、解析用の機材と して使用されているようです。こちらは、ストロボSB-800です。実はストロボには面倒な点があり まして、ストロボの発光原理はであるアーク放電が、宇宙空間の真空では作動しないのです。 そのため、特別チャンバーに入れて完全密封した中に窒素か何かのガスを入れ、電源ブロック を別のチャンバーに入れる構造となっています。従いましてセットはこういう大きさになってしまい ます。ご覧いただいている画像はコダックのデジカメに改造したSB-800を装着した様子なのです が、ストロボがデジカメとほとんど同じサイズになってしまいます。こういう改造工事もここ数年の間 に宇宙での撮影には必要になって来ました。 ここから少し作例画像をご披露致します。 これは船外活動の一駒です。どの画像もニコンが写っているものを用意しました。これはおそら く国際宇宙ステーションの横を通過しているシーンだと思います。 これはハッブル宇宙望遠鏡を調整する最後のミッションでの場面ではないでしょうか。こういうと ころでもニコンは活躍しています。気がついたのは自分撮りが非常に多かった事です。 ほとんどの宇宙飛行士は船外活動をする際に、必ず自分の写真を撮って帰って来ているよう でした。NASAのアーカイブ画像を調べた時、最初はニコンにとって記念になる珍しい良い画 像だなと思って見始めたのですが、実際にいろんな被写体を背にして非常に大量の画像が収 納されていましたので、皆さん記念撮影をして楽しまれていることが解りました。 これは、最新のD2Xsにストロボが付いています。 これはシャトルのおなかで、例の耐熱タイルの貼ってあるところです。お分かりになるように広角 系のレンズが使われています。 遊び気分で売出し中(For sale)などと言う看板を付けて遊んである方がおられました。 このページはシャトル船内の模様です。 これはたまたま上のほうに頭が来ていますが、、宇宙では天井も左右も関係ありません。先ほど のマジックテープでカメラが床や天井などあらゆるところに貼り付けてあります。無重力ですので そこに機材を貼り付けておけば落ちる事はありませんから、画像のように問題なくとどまっていま す。それにしても、いたる所にカメラがあります。 使う際に探すのも大変だろうと思いますが、着陸するときには全部どこかにきちんと収納しなくて はなりませんから、それも一仕事ではないかと心配になります(笑)。 この写真は、仕事のついでにプレスセンターに行った時の記念写真です。場所はフロリダの ジョン・F・ケネディー宇宙センターです。ちょうどシャトルが帰ってきてミッションが終わったば かりでしたので、ひっそりとしておりました。 これはトレーニングシャトルと言い、中は本物そっくりに作ってある訓練用の装置です。これは、 避難用のカゴのようなものです。遠くのここにシャトルが立ちますが、中に乗り込んでから何かが あった場合には、宇宙飛行士はロープで繋がったカゴに乗り込んで一斉に降りて避難するとい うことです。こういうトレーニングもしているそうです。 珍しい場所に案内されましたので自分も記念撮影をして参りました。 これが宇宙センターに特別に通されたところです。絶対に上には触れないようにといわれたの ですが、なんとシャトルの真下だったのです。タイヤがここに見えます。 良く見ますと、高熱にさらされたタイルの一枚一枚の様子がよくわかります。これも記念に撮って まいりました。 スペースカメラの役割のひとつが、シャトル底面の耐熱タイルの撮影でした。 着陸する前に全部のタイルを撮影してそれを解析し、地球に帰る時に問題がないかどうかをす べて完璧にチェックというもので、そうした作業には相当な時間かかるそうです。問題があった 場合にどうやって修理するのかは良くわかりませんが、こういうところでもデジタルカメラが役に 立っています。宇宙飛行士が解析するのではなく、きっと画像データを地上に送って、地上の 担当者が詳細を解析するのだと思います。 こちらは、離着陸の画像です。 まず昼間のシーンです。とても感動するシーンだそうなので是非一度は見たいと思っています。 これは着陸のときです。これは夜の打ち上げ上シーンで、実はニコンの社員が撮ってきたもの です。みごとにノイズのない仕上がりになっています。よく見ますと、人間が小さく写っています。 打上ロケットは非常に巨大なもので、発射の炎は太陽よりも明るいといわれておりますが、残念 ながらこの写真ではさすがに炎の所は白飛びしてしまいました。フィルムだったらどうでしょう。 これも夜中の帰還シーンです。現在多分D3sを試しに使っているはずですので、今後はなお さらこういうときの写真がきれいになってくるのではないかと期待しております。 次はニコンで撮ったと思われる画像です。地球があったり、宇宙ステーションを観察したり、宇 宙ステーションを撮った画像までたくさんありました。 気象情報を撮った写真もたくさんありまして、これが何年か前に米国で発生した大きな台風で、 綿密に撮ってありました。これは、どこかの火山の噴火です。 このような画像もありました。船内に水を浮かべますと、無重力のためにきれいな球形になりま す。水玉の向こうに宇宙飛行士を置いて写したものです。 これは今年千島列島でちょうど噴火を捉えたシーンです。火口から吹き出す噴煙がどのように 湧き上がってくるかということが良くわかる、学術的にも貴重で珍しい絵が撮れたといういう報告 を聞いております。 ここで数字に関する最新情報についてお話ししたいと思います。 NASAの撮影した総枚数は、フィルムカメラで107万枚。デジタルカメラでは72万枚というデー タがあります。その中で確実にニコンで撮られたと解っている写真は、FからF5のフィルムカメ ラでその107万枚の内の70万枚、デジタルカメラでは、72万枚の内の2万9千枚です。 NASAではハッセルをはじめとして、いろんなカメラが使われていましたが、フィルムのおよそ 7割はニコンで撮っていた事になります。 デジカメはD2Xsが使われ始めたばかりですので、この70万枚近くのほとんどがコダックのデジ カメで撮られています。コダックとは言いましてもベースボディがニコンですから、知っている限 りデジタル画像もほとんどはニコンが関与していると言えます。 最新情報による現在国際宇宙ステーションに搭載されているニコンの機材ですが、D2Xsが6 台で、全部宇宙遊泳ができる改造をしてあります。レンズが35本、これもその中の7本が潤滑油 を変えてありますので船外に出られます。ストロボは8台で、その中の二台が改造してあるという 状況です。現在D2XSは市場ではすでに販売終了されていますが、宇宙では現役で活躍して います。もちろんD3、D3sの試験もしておりますので、いずれ近い将来にはD3シリーズが使わ れることになると思います。 参考までにすが、NASAからニコンには、Fの時代から時折こうした御礼状のような記念品が届 けられます。 ここからは現在の市場についてのお話です。 かつてフィルムカメラを生産しているときには、そんなに広いお付き合いを必要としませんでした が、デジタルになりますと、守備範囲が非常に広くなりました。 メモリーを使ったり、テレビと接続したり、無線ができて、プリンターとの関係も密接になってきま した。さらにいろいろな規格への対応も必要ですので、それらの団体とのお付き合いをする機会 が増えてまいりました。従来のように、カメラは写真の基本、つまりシャッターが切れて、ピントが あって、絞りが調整できていればいいと、そういう時代ではなくなってしまいました。そのおかげ で大変忙しくなってしまった訳です。 しかも、デジタル一眼レフだけに限っても、ニコンでも現役で7機種、キヤノンも7機種あります。 7Dという本当に凄いカメラも出てきましたし、ソニーさんも機種数はたくさんあります。 オリンパスからはPENが出てきて、ペンタックスからもカラフルな機種が出ております。 さらに、フジ、シグマ、パナソニック、最近はライカからも個性的なカメラが発売されています。 プロだけでなくハイアマチュア、マニア向けの市場でも大変競争が激しくなってまいりました。 おかげ様で、市場そのものは拡大しています。他の産業、経済状況に大きく振られる車や電器 製品市場と比べましても、そう大きく落ち込んでいるわけではありません。それ自体はニコンに は大変ありがたいのですが、一眼レフに限ってもライバルが多くなってまいりました。さらに、 クールピクスのシェアが低いという現実があります。だいたい、4番手か5番手にいます。時々一 部の国、たとえばアメリカで一番になるときもありますが、大変厳しい状況になってまいりました。 さて、ニコンが生き残るためには、どうしたらいいだろうかというお話をしてみたいと思います。 手前味噌ですがニコンにはコア技術がたくさんあります。どういったものがあるかということを申し 上げますと、まずニコンが初めて開発あるいは世に提供した技術です。思いの他にずいぶんあ りまして、先ほども自動化ということを昔から考えているメーカーだというご説明をしました証拠な のです。ニコンFの時には最初から多くのレンズ交換ができるシステム、AFニッコール、、モー タードライブ、プロ用システム、というようにいろいろな製品を提供しました。 今では先頭を切った事をすっかり忘れられてしまいましたブレ防止も、実はニコンが最初に製品 化したものです。コンパクトデジカメの顔検出もニコがン最初に提供してものです。 それからWiFiを内蔵させて無線で画像を飛ばせるカメラも最初でしたが、市場では余りうけませ んでしたので、コンパクトではしばらく小休止です。 GPSもカメラに内蔵しましたが、衛星を捉える性能が悪くてだめだといわれてしまいました(笑)。 最近では1000PJというユニークなプロジェクター内蔵カメラを出しています。マスコミでの評判は 非常にいいのですが、まだまだ商売には結びついてないみたい(笑)ようです。私も宴会では良く使って、 その場では皆さん大変楽しんでくれるのですが、その方たちが、その後買いにいって くれたかどうかというと、現実は厳しいものがあるのではないかと思います。 こういった基本的な、あるいは飛び道具的な発明や発想はたくさんあり、その中には失敗したも のも、うまくいったものもあります。良かれと思って先行した技術のいくつかは世のため人のため に、お役に立っているのではないかと自負しております。 このように、ニコンには初めてやったという技術がたくさんあります。ただし、写真文化を変えるよ うなことはして来なかったのではないかと思います。 この写真文化のところをニコンはもう少し考えていかなければなりません。 はるか昔のことですが、銀塩写真技術はフランスで始まり、歴史が下ってそれを小さなカメラに 仕立て上げたのがライカでした。ライカ社にオスカー・バルナックという偉大な技術者がいまし た。この方がカメラを小さく使いやすくして、カメラの基本形として現代にも受け継がれています。 またコダックは1899年に、ザ・コダックというカメラを出しました。これは、写真を撮ってそのままコ ダックに送ればプリントと一緒に新しいフィルムを詰めたカメラが返ってくるというシステムになっていました。 そういうことによって写真の大衆化が一気に始まりました。 メーカー名と写真家名は忘れましたが、超望遠レンズを使って、ニューヨークの摩天楼の遠近 感を圧縮して表現した写真や、超広角レンズを使って、臨場感の違う表現を開拓したしたメー カーもあります。 写真家では、カルティエ・ブレッソンのように「決定的瞬間」において、動きのある写真だけでは なく、人生の営みのある瞬間を捉えるということを提唱した人もいますし、アンセル・アダムスの ゾーンシステムでは、モノクロの諧調表現を極めつくすことで写真を美術品のレベルにまで引き 上げました。以上のように写真界には文化として有名なことがたくさんありました。 先ほど言いましたように、キヤノンはピントを大幅に自動化し、モータードライブで多くのシーン を撮って、後は自由に料理するというような文化を広めたと思っておりますが、さてニコンはこう した分野で何かやったのかと考えますと、あまりないのではないかと思っています。今の時代に こそこれを良く考えなくてはならないと考えています。   あえて挙げますと、デジタルの基礎はある程度築いたと思います。 実はニコンは現在のデジタルの基礎となるような特許を1980年代にずいぶん出しております。 背面に液晶のモニターがあって、レンズとの中間にはセンサーがあって等という基礎的なアイ デアはほとんどこのときに出してあります。 その後には、フィルムのダイレクト電送機といいまして、デジタル写真がまだなかった時代、フィ ルムの画像をCCDで電気信号に変換し、電話線でそのまま送るという技術を実用化し実際にソ ウルオリンピックの頃には採用されて、現場で大活躍しました。これは報道用限定のカメラで、 ほぼ200セットだけ作りまました。モノクロの電子カメラも結構早い時期に提供したという事です。 本格的なデジタル一眼はフジフィルムと共同開発した機種でしたし、D1では写真の業界をか なり変えたと思います。 まだまだ写真文化を創造する域には達していませんが、ニコンにはこういうコア技術を切り開く 伝統が残っていると思っています。ニコンのコアコンピタンスは60年間の写真技術の開発を通 して蓄積した事と、最先端の光学技術にあります。安い商品を供給するということはまだまだ得 意ではありませんが、歴史と伝統に支えられた最先端のテクノロジーもニコンのコアコンピタン スではなかろうかと、考えています。それがD3を始めとした高品質、高機能、高信頼性のデジ タルカメラや、ニッコールレンズが生産できる基盤にあると自負しております。 また先ほどのNASAのカメラの例にありますように、絶対の信頼性こそがニコンブランドの偉大 なる資産ではないかと思います。 ニコンでは、カメラだけが孤軍奮闘して独自の技術や製品を編み出しているわけではありませ ん。最近でこそ経済不況のために大変な苦戦をしておりますが、ステッパーや顕微鏡にも大変 優れた製品ががあります。これはステッパー用のレンズです。一抱えもある、半径30cm、40cm といった巨大なレンズが、この筒の中に何十枚と入っておりまして、天井から吊らないと組み立 てられない大きさです。しかも、そのレンズ一枚一枚の間隔を、気圧、温度などで微妙に調整を する必要があるそうです。こうした技術と装置を作っているのが、ニコンの生業の一つであるステ ッパーのビジネスです。先ほどお話しした、戦前の極めて難解で、精密な構造と高い精度を要 求された光学兵器を作っていたというルーツが、こうした分野に反映されております。 そして実はこの技術がニコンのデジカメやレンズには応用されています。その一番いい例が、 ナノクリスタルコーティングです。世の中にはキヤノンからも、ペンタックスからも、新たなコーテ ィングが出ておりますが、性能ではナノクリスタルコーティングが段違いに優秀であると自負して います。 それから「もの作り」の技術です。中国の無錫にあるニコンイメージング・チャイナというニコンの 工場では数種類のコンパクトデジカメを製造しています。 タイのアユタヤにはニコン・タイランドがあり、ここでは、比較的普及タイプのデジタル一眼レフと ニッコールレンズを製造しております。 国内の工場では、仙台ニコンが高級一眼レフを、栃木ニコンでは、高性能レンズの製造を担っ ております。そうした総本山が大井町にあり、連携を組んでもの作りをしている訳です。 ここで何故あえて「現代の物作り」というかと申しますと、現在のような円高になりますと、日本で 作ることが難しくなって来ます。あるメーカーは大々的に生産の日本回帰を謳っていますが、 どちらも大変な苦労は伴いますので、いろいろな可能性を用意しておくべきでしょう。 ニコンのタイ工場には、1万人以上、中国には4千人くらいの従業員がいます。ニコングループ は全体で約2万人の従業員が働いているのでが、その中で一番多いのがタイ人、二番目が中 国人ということになります。 このように今では多くの製品が海外で生産されているという状態になっています。タイ工場の従 業員1万以上を、日本から派遣されている約30人がマネジメントをしています。 中国工場も同様で、そのように日本人駐在員は少なく、しかも主だったところしかやっておりませ んで、日頃の品質管理はすべて現地のタイ人、あるいは中国人が取り仕切っている事になりますが、 日本とまったく同じレベルの品質管理のもとで製造されております。 例え中国やタイで生産をしていても、品質は国内産とまったく同じ水準を維持しております。 海外工場ではD300Sのような、比較的高級なカメラも作られておりますので、技術、品質管理 ともに日本とまったく遜色のない状況である事は既にお分かりの事でしょう。 きちんとした生産管理・品質管理をしているということとともに、現地の人たちにも確実にニコン ブランドに対する信頼性とロイヤリティーがありますので、日頃の仕事にも誇りを持って努力して くれているのではないかと考えております。   さてニコンのコア技術ですが、その最たるものは、アナログ技術にあると、私は思っております。 デジタルカメラといいましても、カメラの中は数多くのアナログ技術で満たされております。 まず光学系ですが、これはアナログです。計算自体はパソコンでできますが、レンズ構成の発 想やレンズの味を出すための技術には完全にアナログ思想が必要です。 ブレ防止もアナログです。人間の手のブレの仕組みといったことは、アナログでなければ解析で きません。 モーターや、オートフォーカスにしましても、動かし方や検出の仕方は全部アナログですし、電 源制御もそうです。それからミラーの駆動、絞りの制御、こういうメカニズムもすべてアナログで制 御しています。 音、振動、ブレ、感触、こういった人間系に関わる要素については、あらゆることを人間が介入し ないとその良し悪しがわかりません。もちろんデジタル技術を駆使したいろんな計測器は駆使しておりますが、 最後は人間がじかに聞いて、触れて、その上で判断しないことには、いいものは生まれません。 ストロボの制御もそうですし、光学系の中でも、特に接眼の光学系は、人間の目で直接見ない と、その良否はまったくわかりません。人間の視神経に直接訴える部分ですから、機械による 測定だけでわかることは限られています。 自動露出や画像センサーも同様です。後程またお話ししますが、画像センサー自体はデジタル ですが、実際にはアナログの半導体で、しかも光デバイスが入っていると思っています。 さらに画像処理にも同じことがいえます。こうして見てきますと、デジタルカメラを動かし撮影し 記録する、ということのすべての分野でアナログ技術が駆使されている、ということがおわかり いただけると思います。 それぞれを詳しくご覧頂きます。 まずニッコールレンズです。最近また新しい優秀なレンズも出しましたし、これからもいろんない いレンズを出してまいります。 ファインダーも同様です。明るく、高倍率で、ハイアイポイントでと、あまり贅沢をいいますと、、 大きくなってしまいますので、これを押さえつつ、どうするかということには大変高い技術が求め られます。しかもピントが合わせやすくないといけません。いずれはニコンでも、エレクトリック・ ビューファインダー(EVF)として液晶ファインダーを提供するようになるかと思いますが、やはり 光学ファインダーの、目に優しく、美しいという利点は大切にして行きたいと考えております。 EVFは、映像をいったん電気に置き換えた表示になりますから、ガラスを通して見た絵とは全 然違うものになってしまいます。逆にEVFならではの新しいことはできると思いますが、プリズム を通した本当に忠実で美しい絵を見るためには、光学ファインダーの良さを反映させない限り 完成とは言えません。ニコンの存在意義とは、ファインダーのように写りには直接関係ない部分 においても、とことんこだわって行く姿勢ではないかと、考えております。 撮像素子も光学デバイスです。センサーの一つ一つのピクセルの上には、集光用レンズが二 系統入っています。特に最上部のレンズの曲率などは機種ごとに微妙に変えています。例え ば、センサーの中心にあるレンズと隅にあるレンズの曲率や中心値は微妙にずらしてあります。 このように、センサーの構造まで特注しておりますので、仮に納入先が同じセンサーだといいまし ても、実際にニコンに納入されて来るセンサーは、ニッコールの特性に確実に合わせた特殊な デバイスになっていますので、全然違うものだと思ってください。 それからオートフォーカスです。最近キヤノンと比べてオートフォーカスずいぶん良くなってきま した。ある部分ではキヤノンを完全に凌駕しております。 MarkWに対しましても、今度のD3sの方がさらに上を行っていると思います。中心をうまく捉え る技術と、被写体が前後に動いても、左右や上下に動いても、被写体を追い続けるオートフォ ーカスの技術も、大変精度が高くなりました 自動露出でも昔から多くの工夫をしています。RGB測光技術はF5の時代に始まりましたので、 すでに20年が経っていますが、その間にはずいぶん改良してまいりました。 毎回撮影前のシーンを解析できるようになり、解析結果をオートフォーカスに反映したり、自動 露出やホワイトバランスの調整にも活用されております。残念ながら、類似のことをEOS7Dで実 現してきたようですので、我々はもっと先に行かなければならないと思いっています。   信頼性に付きましても、こういった金属をベースとして丈夫に、しかもシールを駆使して、水やホ コリが入らないように加工し、さらに触り心地がいいということを大切にしています。ただ、ここでさ らに工夫しないといけないことがあると思っています。それは、材料であるマグネシウムの比熱が 小さいために熱伝導が低く、金属特有のひんやりとした感触が得られません。カメラは冷たいほ うがいいといわれる方が大勢おられますので、何とかして冷たい金属によるカメラも開発したいと 考えています。 かつての、F、F2、F3までのカメラは、おつまみがなくても、その存在だけでお酒が飲めました (笑)。そばに置いて、ニコンだけではなくライカや、コンタフレックスやハッセル、ローライといっ たカメラもそうなのですが、それだけでお酒が飲めるというカメラが実にたくさんありましたが、最 近のデジカメでは、なかなかそういう気分にはなりません。 カメラにホコリが積もっても、あまりきれいにしようという気も起こしません。昔ですと、いつもきれ いにして、シリコンクロスで拭いて大事にしたものですが、どうもそういう気を起こさせない質感に なってきてしまいました。それを何とかしたいと思っています。 このようにカメラを放っておくカメラマンが非常に多くいます。この方は、スキーのレース会場に 複数のカメラを持っていって、どこかにに行かなくてはならないということで、一台(雪の中にむき 出しで)放り出したままにしています。やがて戻ってきて、またこのカメラを回収して次のところに 行くわけですが、ニコンではこのような扱いをされることも想定して、高度な信頼性を実現しけれ ばならないという厳しい条件を課しています。   次は画作りです。最近はいろんなモードを用意してあり、お客様の好みに合わせた満足のいく 画作りができるようになりました。すべてのお客様の好みに合わせるのははなはだ難しい分野 ですが、いろんなシーンに合わせられるようにニコンにもEXPEED(エクスピード)というすばらし い画像処理エンジンが開発されています。ピクチャーコントロールというシステムを入れて、縦横 無尽に使えるようになりました。 EXPEEDについてはもっと宣伝したいと思います。今まであまり宣伝して来なかったということも あり、キヤノンのDIGICに比べると知名度はかなり低い状況です。かつては画像処理エンジンと いう名前でしか呼ばなかった時代がありましたが、D3を出したときにこれに名前をつけようという ことになりEXPEEDと命名されました。せっかくいい名前を付けたにも関わらず宣伝しないもので すから、残念ながらあまり知られておりません。改めて申し上げますがニコンのエンジンは 「EXPEED」です(笑)。 もう一つ宣伝しますと、他社が二個のエンジンを使って同系統のカメラを提供しているのに対し、 ニコンはEXPEED一つだけで仕事ができています。それだけEXPEEDは、早くて優秀でしかもいろんな ユーティリティーが深いという、そういうエンジンであります。 次は無線のお話です。 ニコンはもともとメカの会社でありまして、メカには強い会社です。私がニコンに入ったのは、 大学で電気を学んでおりましたので、メカの会社に入ればひょっとして重要な仕事をさせてもら えるかも知れないと思ったからです。 F3の電気回路の設計からこの仕事につきまして、その後のカメラが高度に電子化されていった ことを考えますと、少しは先見の明があったかもしれません。 そうして入った元々はメカの会社ですが、無線は私のような電気屋にさえわからないのです。 それは電波が目に見えないからです。この分野では今後大変苦労することになると思いますし、 実際に今も苦労しております。 この画像は北京五輪で、無線を使ってデータをやり取りするときのセッティングの模様です。 たくさんの無線装置付きのカメラを並べ、100mのレースを下から見上げるように撮るというもの でしょう。 こちらの写真は、5人のカメラマンが撮影した画像データが、それぞれのカメラからどこかにいる デスクのパソコンにまずサムネイルが自動的に飛ばされている様子です。その中にいい画像が ありますと、それの本画像を送信せよと指令を戻し、それをまたカメラから送るという非常に使い やすいシステムを、この無線で構築しました。この技術はキヤノンよりも相当先を走っていると思 っていますし、今度のバンクーバーオリンピックでも大変多くの報道陣に使われる予定です。 ニコンの意思としましては、最近のD3sでおわかりになりますように、超高感度と、高速レスポン スをアピールしています。高速シャッターで撮りたい、被写界深度を確保したい、ストロボを必 要としない、ストップモーションが撮れる、写真がぶれない、リアルタイムで撮れる、しかもトリミン グしても画質の低下がない、カメラマンのこうした要求に完璧に応えるために、D3系を開発い たしました。 このカメラには、写真を変えよう、撮り方も変えよう、というコンセプトが込められています。 この会場を真っ暗にしましても、D3sなら相当にきれいな写真が撮れます。人間の目では見え ないものですら写します。かつてはローソク一本で写真が撮れるということが最先端でしたが、 月明かりで、あるいは星明りでも写真が撮れるという、D3sはそういうカメラになっています。 手持ちで銀河を撮ることも可能です。D3でも撮れましたが、D3sではさらに能力が向上いたし ました。 それからニコンの大きなメリットの一つとして、光学系が挙げられます。いろんなコーティングや 設計技術、複雑なメカニズムがありまして、これによっても、写真を変えたり、撮り方を変えたりす ることが我々の使命だと考えております。 それからもう一つ別の話題なのですが、例えば車やオーディオ、あるいはムービーの世界では、 プロ用の機材と、アマチュア用の機材は、次元がまったく違います。 中には酔狂な人がいて、プロ用の機材を持っているアマチュアもいますが、ほぼ例外なくプロが 使う機材というものは、高価で普通の人には使いにくくてとても太刀打ちできない代物です。幸 か不幸か、カメラだけは特殊な道具で、アマチュアもプロもまったく同じものを使います。 これはメ−カーの努力ということもあると思います。昔は本当にカメラも一部のごく限られたエリー トの道具でした。カメラ一台で家が一軒買える、それもただの家ではありませんでした。 中庭が付いて裏庭が付いて、部屋もたくさんあってと、そういう家が買えたという時代もありましたが、 そんな時代がうそのように、こんなにカメラが安く買える時代になりました。 このようにカメラというものは、プロの要求を満たした高度な機材とまったく同じものを、アマチュ アも使えるという点において、きわめて特殊でありますが、開発者にとって、そこには困難ととも に、大きな喜びもあります。 では今後はどうするのか、ということが課題になってまいります。 一つが電気メーカーとの競争です。ソニー、パナソニック、その他の電気メーカーは、こうしたデ ジタル製品を作るのが非常に上手です。しかも彼らの多くはデジタルカメラに必須の技術を自ら開発 していたり、あるいはセンサーメーカーでもあるという有利な立場を持っていますので、敵と しては強大で大変な時代を迎えております。従いまして彼らと同じような電気製品を作っていた のではニコンの出番はありません。 ある部分において、カメラは趣味嗜好品です。それがすべてとはいいませんし、ニコンがライカ のような製品だけを作っていては経営も成り立ちませんが、そのような考えも入れていかないと、 電気メーカーとの違いを出す事ができないことになります。 何といってもニコンには、何十年というカメラの歴史がありますので、それを大事にしないといけ ないと考えています。さらに最近はシステムがずいぶん拡がってまいりました。スチルだけでは なくて、ムービーが付いたり、写真をテレビで見るという文化にもなってきました。パナソニックに してもソニーにしてもキヤノンにしてもサムソンにしても、どのメーカーも、撮影機器から出力デバ イスまで全部揃えているのに対して、残念ながらニコンにはありません。ここをどう解決するかと いうことにも頭を悩ましています。 そういう電気メーカーとの戦いがこれから必要になってきますので、ニコンは存在理由をはっき りさせないといけないと言う事です。 一方まだまだデジカメは発展途上の製品です。フラグシップの一眼レフでさえ、2年に一度新製 品を出せるというのは、出したくて出すのではなく、技術が日進月歩なものですから、できる範囲で 出していかないとすぐ古びてしまうという現実があるからなのです。新しい機種は、確実に画像も 良くなっていますし、撮りやすくなっていますし、ユーザーの意図に合った綺麗な、仕事でも使える 写真を撮れるという意味では、生産性も向上しています。そのため、例え安い機種であって も上位機種を上回る、下克上ができるという宿命を負っています。発売したばかりのD3sは今は 威張っていられますが、次に新しく出てくる機種は、仮に値段が安くてもD3sよりも高性能で、一 層良い画像が撮れるものになっている可能性があります。 デジタルカメラには、そういう下克上が必ずありますし、これに加えて、機能以外の何か、飛び道 具的な機能などがどんどん増えていくと思います。 ですからニコンは基本の部分ではこれからもアナログを重視していきたいと思っています。ニッコ ールを代表とする光学系も重視していきたいと思います。さらにできることならば、先程も申し上 げましたような新しい写真文化に対し、少しでもニコンが貢献できたらいいなと考えています。 ではこれからどうしようかということは日頃から皆で考えておりまして、まだ結論は出ておりません が、この場で申し上げられることは、こういう強敵がいっぱい増えている市場の中で、彼らが考えて ないことを先に思いつこう、今までのノウハウを充分に活かそうと、思っていることなのです。 冒頭に紹介しました後藤研究室のキャッチフレーズ、期待に応えるためには、きれい早いはもち ろん、技術的にもっと先にいかなければいけませんが、これに心地よいことを付け加えようということ を掲げています。こうした言葉、理念や観念を具体的な形にして行かれるよう、日々努力して 行きたいと思います。 私は、ニコンにはこのような人間くささの感じられる製品、サービスが必要だと思っている訳なの です。 少し予定時間を過ぎてしまいましたが、ありがとうございました。 以上のお話でおわかりになったかどうか、遠くから来ていただいた方ががっかりして帰ることがな いか、はなはだ不安でございますが、長時間ご静聴ありがとうございました。 (終演後に、こんなサプライズがありました。)   実は一つ皆さんに見ていただこうと思って、持って来たものがあります。それをこれから出して、 本物を皆さんにご披露いたしますが、日本には一台しかない品物です。 これが会社で大事に保管しているNASA用のニコンFのボディとレンズです。 これが紛失しますと、私の首が飛んでしまいます(笑)。 ご覧いただくとわかるように、年月を経ておりますために本来のマットブラックが相当つるつるに なってきていますので、お手を触れませんよう、ご覧になるだけでお願いいたします。写真は撮 っていただいて結構でございます。 (それはニコンのスペース・カメラ 「ニコンF フォトミックFTN NASAモデル」でした。 カメラの回りには、あっという間に黒山の人だかりができました。後藤さんからの一足早いお年玉 に皆さん大喜びでした。)  以上